はじめに
このノートは、The Psychology of Totalitarianism(Mattias Desmet著)を読み、重要と思われた部分を抜き出して記録したものです。ノートは、章単位の構成となっています。他章のノートを参照する場合、各ノート末の「全体校正」のリンクを参照してください。
このノートは、一読者としての印象を部分的に抜き出たものです。私の意見・感想は含まれていません。しかし、部分的な抜き出しなので、正しい内容を反映していないかもしれません。また、本文での引用情報も含まれていません。従って、本書を正しく理解するためには、ぜひ原文をお読みください。
しかし、いつの間にか、ほぼ全文を訳し始めているのですが。。。。抜き出すより、その方が楽だったので。。。。)
このノートの目的は、自分としての理解の整理ですが、もし、本書の興味の一助になれば嬉しいです。
参考までに、Mattias氏が、自ら著書を語っているビデオなどがあります。
Introduction
全体主義について本を書くことを考え始めたのは2017年11月4日でした。
2017年までに、全体主義的な動向を否定できなくなりました:私生活に対する政府の支配力は、とてつもない速さで増大していました。プライバシーの権利が侵食され(特に9.11以降)、オルタナティブな声がますます検閲・抑圧され(特に気候変動の議論の文脈で)、治安部隊による侵入行為の数が劇的に増加するなどが起きました。
しかし、この動きの背景にいたのは、政府だけではありません。「目覚めた」文化と気候変動運動の急速な盛り上がりに押された国民は、超厳格な政府を望みました。テロリスト・気候変動・異性愛の男性・のちのウィルスは、従来の取組方では危険すぎると考えられたのでした。国民に対する技術的な「追跡・捕捉」徐々に受け入れられ、ついに必要とさえ考えられるようになりました。
ドイツ系ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは、将来現れるであろうデストピアを追っていました。新しい全体主義は、スターリンやヒトラーの様な派手な「暴徒のリーダ」ではなく、おもしろみのない官僚やテクノクラートに率いられると、予測しました。
11月に、私は全体主義の心理学的根源を探るための本の青写真を描きました。この時、不思議に思ったことがあります:なぜ、国家としての全体主義は、20世紀前半に初めて出現したのか?さらに、古典的な独裁国家との違いは何か?本質的な違いは、心理学の領域にあると、気付きました。
独裁とは、独裁政権の残酷性を用いた原始的な心理的メカニズム(=国民に恐怖を植え付ける)に基づいています。一方、全体主義は大衆形成の陰湿なプロセスに、その根源があります。このプロセスの徹底的な調査は、全体主義化した大衆の振る舞いを理解するための唯一の方法です。全体主義化した大衆の振る舞いの例:集団(=大衆)と連帯するために自らの利益を犠牲にする過度の自己犠牲の考え方、反体制的な声に対する不寛容さ、疑似科学的な教化やプロパガンダに対する影響の受けやすさ。
集団形成の本質は、集団催眠です。それは、個人の倫理的自己認識を破壊し、批判的に考える能力を奪います。このプロセスは陰湿です。集団は知らず知らずのうちにその餌食になるのです。ユヴァル・ノア・ハラリは「ほとんどの人は全体主義体制への移行にさえ気づかないだろう」と述べています。我々は、全体主義から労働キャンプ・強制収容所・絶滅収容所を連想しますが、それは全体主義化の長いプロセスの最終段階でしかありません。
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私の学問的関心は、他の分野と有機的に結びつきました。例えば、私は博士論文で、2005年に勃発した科学界の危機的状況を心理学の視点で検討しました。この危機とは、科学研究において、杜撰さ・誤り・偏った結論・不正行為が蔓延し、ある分野では85%が根本的に誤った結論を出している、という状況が明らかとなったことです。心理学的な観点から興味深いのは次の点です。ほとんどの研究者は、自分たちの研究が正しいと確信していることです。彼らは、自分たちの研究が、事実に近づくのではなく、架空の新しい現実を作り出していることに気付きませんでした。
このことは、現代科学にとって深刻な問題です。なぜなら、科学は世界を理解する上で最も信頼できる方法として信頼されているからです。さらに、前述の問題は、全体主義という現象に直接的に関連しています。これこそ、アーレントが明らかにしたことです。全体主義の底流には、一種の統計的・数値的な「科学的虚構」に対する盲目的な信仰があります。科学的虚構は、「事実に対する根本的な侮蔑」です:「全体主義的支配の理想的な対象は、確信犯的なナチスや共産主義者ではなく、事実とフィクションの区別、真実と偽りの区別がもはや存在しない人々である」
科学研究の質の低さは、より根本的な問題を示しています。私たちの科学的世界観には大きな欠点があり、その影響は学術研究の分野をはるかに超えて広がっています。これらの欠点が、深刻な集団的不安の原因です。この数十年、集団的不安は、我々の社会において益々顕著となっています。人々の未来観は悲観主義に染まり、その傾向は日々強まっています。もはや、社会のグランド・ナラティブ(啓蒙主義の物語)(または、Grand Narrative、大きな物語)は、かつての楽観主義や積極主義につながっていません。多くの国民が社会的な孤立に捕らわれています。精神的な苦痛による欠勤が著しく増加し、向精神薬の使用もかつてないほど増え、燃え尽き症候群は、企業や政府機関を麻痺させています。
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2020年2月、世界が根底からゆらぎ始めました。世界が直面したのは、計り知れない危機でした。数週間で、誰もがウィルスにまつわるストーリーに魅了されました。そのストーリが、事実に基づいていることは疑いようがありませんでした。しかし、それは、どの事実にでしょうか?我々は、中国の映像と通して「事実」を垣間見ました。都市全体が隔離・検疫され、新しい病院が突貫で建設され、白いスーツに身を包んだ人たちが、公共の場を消毒しているという映像を。あちこちで、「中国の全体主義は大げさ」や「新型ウィルスはインフルエンザ並」という噂がながれました。逆に、「新型ウィルスは、見た目よりも悪い。でなければ、政府があんな過激な対策を取るはずない」という反対意見も流れました。あの時点で、我々にとっては、はるか遠くの対岸の話でした。
それも、ウイルスがヨーロッパに到着した瞬間まででした。今、私たちは、自分たちのために感染者数と死亡者数を数え始めました。イタリアからの映像は、過密状態の救急室、死体を運ぶ軍の車列、棺桶で溢れた死体安置所でした。インペリアル・カレッジの著名な科学者たちは、抜本的な対策を講じなければ、ウイルスは数千万人の命を奪うだろうと自信をもって予測しました。ベルガモでは、昼夜を問わず鳴り響くサイレンが、「この事実」を敢えて疑おうとする声を封じ込めました。それ以来、物語と事実が融合し、不確実さが確信に変わりました。
想像を絶する事態が現実となりました。急転直下、地球上のほぼ全ての国が、中国に倣い、国民を事実上の軟禁状態に置きました。そして、不吉な予感と開放感を伴った、超現実的な静寂が訪れました。飛行機の飛ばない空、交通ラッシュという血液のなくなった道路と言う名の血管、虚しい欲望を追求した結果の塵が沈殿し、インドでは30年ぶりにヒマラヤ山脈が地平線上に見えるほど空気が澄んだのでした。
それだけにとどまりませんでした。権力の移行には、目を瞠るものが有りました。ウィルスの専門家が、信頼できない政治家と取って代わりました。新しい権力者は、ジョージ・オーウェルの作品「動物農場」に出てくる「豚」(動物農場で最も賢い動物)のようでした。彼らは、疫病が蔓延している時に、正確な(「科学的」な)情報をもって動物農場を運営しました。しかし、この専門家たちが、よくある人間的な欠点を持っていることが判明しました。彼らは、「普通の人」でも簡単にはやらないような間違いを、統計やグラフで犯しました。一時期は、例えば心臓発作で亡くなった人も含めて、すべての死因をコロナウイルスによる死亡とカウントしていたほどです。
また、専門家は、自分たちの約束を守りませんでした。彼らは、ワクチンを2回摂取すれば、「自由への門」を再び開くと公約しました。しかし、その時になっても状況は変わらず、3回目の摂取が必要だと言い始めました。そして、「オーウェルの豚」の様に、何回もルールをこっそりと変えました。最初、病人の数が医療システムの容量を超えないようにするため、人々はそのための対策に従わねばなりませんでした(カーブをフラットにする)。しかし、ある日、人々が目覚めると、ウィルスを根絶するために対策を延長すると決定されたことを知りました(カーブをクラッシュさせる)。やがて、ルールはあまりにも頻繁に変わるので、それを把握しているのは、一部の「専門家」だけの様に見えました。そして、それさえも、確信がもでなくなりました。
一部の人達は不審に思いました。専門家が、素人でもやらかさないような間違いをするのは、どうしたことか?彼らが、そんなに愚かなはずがない?彼らの最終的な目的は何なのか?彼らの提言は、我々を更に同じ方向へ導いています。一歩進む度に、我々は自由を失います。今の所、彼らの提示する最終目的地は、人類をQRコードに還元することのようです。
やがて、ほとんどの人々が、とても強い確信を持つようになりました。しかし、彼らの確信は相反するものでした。ある人は殺人ウィルスに対応していると確信し、ある人は季節性インフルエンザ程度に過ぎないと確信し、ある人はウィルスなど存在せず、世界的な陰謀だと確信しました。それでも、一部の人たちは、不確実性を受け入れ、自問自答を続けました:我々の社会で何が起きているかを、どうしたら十分に理解できるのか?
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コロナ・ウィルス危機は晴天の霹靂ではありません。これは、恐怖する対象に対して、社会の絶望的・自己破壊的な一連の反応です:テロリスト、地球温暖化、コロナ・ウィルス。新しい脅威が出現する度に、我々の反応と考え方は唯一つだけです:管理を強化せよ。人類はある程度の管理にしか耐えられない、という事実は見落とされています。強制的な管理・支配は恐怖を呼び、その恐怖がさらなる管理・支配を生みます。こうして、社会は悪循環に陥ります。この悪循環は必然的に全体主義(つまり極端な政府による支配)につながり、最終的には人間の心理的・物理的な完全性の両方の根本的な破壊に帰結します。
我々は、現在の恐怖と心理的不快感自体が、それ自体問題であることを理解せねばなりません。この問題は、ウィルスや他の「脅威対象」の問題と区別する必要があります。我々の本質的恐怖は全く異なるレベルから生じています。すなわち、我々の社会の「大きな物語」(Grand Narrative)の破綻が原因です。機械論的科学の物語(narrative of mechanistic science)では、人間は生物とみなされます。この物語では、人間の心理的・象徴的・倫理的な側面が無視されるため、人間関係のレベルに破壊的な影響がでます。この物語は、人を仲間や自然から孤立させ、人とその周囲の世界との共鳴を失わさせ、人を「原子化された対象」(atomized subject)にしてしまいます。アーレントによれば、まさに「原子化された対象」が全体主義の基礎なのです。
全体主義は、歴史的な偶然の結果ではありません。全体主義は、機械論的思考と人間の合理性の万能感に対する妄想の理論的帰結です。全体主義は、啓蒙主義の歴史的特徴をそのものです。すでに、何人かの著者はそのことを想定しています。しかし、まだ心理学的分析は対象となっていません。本書は、そのギャップを埋めるものです。本書は全体主義の症状を分析し、社会現象のより広い文脈において位置付けます。
第1部(第1章~第5章)では、機械論的・物質論的な人間観や世界観が、集団形成と全体主義を反映させる具体的な社会心理的条件を、どのように作り出しているのかを説明します。第2部(第6章から第8章)では、大衆形成の過程と全体主義との関係について具体的に説明します。最後の第3部(第9章から第11章)では、人間と世界の現状を超越する(全体主義を不要にする)ための方法を検討します。実は、本書の第1部と第3部では、全体主義について少ししか触れていません。本書の目的は、全体主義に関連するもの(強制収容所、教化、プロパガンダ)ではなく、全体主義が出現する、より広い文化的・歴史的プロセスに焦点を当てることです。このアプローチによって、私たちは最も重要なことに焦点を当てることができるのです。すなわち、全体主義は、私たちの日常生活で起こる進化や傾向から生じるのです。
本書は、私たちが行き詰まっているように見える現在の文化的な袋小路から抜け出す方法を見つけ出せるか否かの可能性を探っています。21世紀初頭、深刻化する社会的危機とは、その社会の根底における心理的・思想的な激変が顕在化したことを意味します。世界観が拠り所としている地殻の変動です。我々は、古いイデオロギーが最後にもう一度力を取り戻し、そして崩壊する、その瞬間を体験しているのです。現在の社会問題(それが何であれ)を、古いイデオロギーに基づいて是正しようとする個々の試みは、事態を悪化させるだけです。問題を生み出したのと同じ考え方で、その問題を解決することはできません。私たちの恐怖と不安に対する解決策は、(技術的な)支配を強めることではありません。私たち(個人および社会として)がやるべきことは、人間と世界に対する新しい見方を構築し、私たちのアイデンティティーの新たな基盤を見つけ、他者とともに生きるための新たな原則を打ち立てること、そして、人間の能力を再認識することです。
全体構成
Introduction(このノート)
Part I: Science and its Psychological Effects
Part II: Mass Formation and Totalitarianism
Part III: Beyond the Mechanistic Worldview