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【小説】健子という女のこと(30)

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 健三は車窓の飛騨川の流れを望み、冴子がどんなことを思いながら、この列車で健子と自分の二人連れを、追いかけて来たのだろうと思った。そして、通夜の守の言葉を、また蘇らせている。
「あの日、お母さんね、お父さんの顔が、急に見たくなったのって出かけて行ったんだ」神戸に出向く冴子が、そう留守宅に言い残して行ったんだと聞いた健三は、冴子の愛おしさに、咽るばかりだった。
 健子は午前中の診察で、退院の許可を得、転院と退院の手続きを終えたところだった。健三は久しぶりに見る健子が、少し歳をとったように思える。その後の経過は、本当に良かったようだ。
 まとめるべき荷物らしきものは、ほとんどなかった。あれは旅先での、ちょっとした事故だったんだ。たいした荷物のない健子の退院支度を、健三は目で追いながら、そんなふうに思うことにした。間接的に冴子は、命を落としてしまったのだが。それも、偶然に起きた事故なのだと、健三は気持ちを、無理矢理に整理するのだった。
 健三と健子。今の二人の最大の関心事は、冴子のことのはずだが、互いにそのことには触れないように努めているようだ。
「もう一度、お母さんの墓参りに、行ってほしいの」健子にせがまれて、常願寺に寄ってから、神戸に戻ることにした。
 常願寺には、紅葉した枯れ葉の絨毯が、敷き詰められていた。その枯れ葉は、秋の柔らかな夕日に照らされて、無言の二人を一層無言にさせる。

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「今度、いつ来てあげられるか・・・」健子は母親の墓前で、か細い声でそう言った。健三は奥歯を噛みしめ、両手の握り拳により一層の力を込める。
「お母さん!田端健三さんだよ!」健子はおかしな言い方をしてから、瞼を閉じ合掌した。その合掌は、随分と長く続いた。健三はしゃがみ込んだ健子の後ろで、手を合わせながら、漠然とそう思うのだった。
「田端さんもお参りして」健子は、健三に涙声でそう言って、健三を墓前へ進ませた。健三は新しい線香に火を点し供えながら、「僕が、健子さんを絶対に幸せにしますから・・・」田端は、力のこもった太い声で、健子にも聞こえるように墓前で誓う。そして、健子の様に、少し長い合掌をした。
 立ち上がろうとした健三の背後から両肩に、寄りかかるように健子が被さって来た。その健子の両手には、赤い紐が巻き付けられている。そして、その紐が、物凄い勢いで、健三の首筋を目がけて襲って来るのだ。
「健子!何するんだ!タッ・・・ケ・コ!」健三はただ、そう吠えるように、叫ぶしかなかった。自分の首筋に、絡みついた赤い紐には、健子の全体重がかかり、男の腕力でも解けそうにない。健三が、もがけばもがくほど、苦しくなってくる。
「お母さ~ん!この人が、あなたが一生かけて愛した人なのよ・・・」健子は、意識朦朧とする健三の耳元で叫び続ける。「お母さんは、亡くなるまで、あなたのことを、ずっと愛していたんだから・・・」
 健三は最後の力を振り絞り、健子の脇腹目がけて肘鉄を試みる。しかし、それも二度、三度、空を切るばかりで、健子を捉えることができなかった。

 ここで、殺されるのか、途切れ途切れの意識の中で、健三は観念した。


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