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【小説】健子という女のこと(32)

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「お母さんは、わたしを生んだことで、両親とも親戚とも縁切り同然になったの・・・」健子の言葉のひとつひとつが、より陰湿さを増して、枯れ葉の上に積もっていく。
 健三は黙して聞きながら、若かっんだエミ!結局生んだんだ!バカなことを・・・。そんな不埒なことが、頭をよぎる自分自身に、嫌悪感を抱く。
 ズボンの枯れ葉を払いながら、健三はやっとの思いで立ち上がり、身繕いをした。そして、枯れ葉の海に、へたり込だまんまの健子の鼻先に、片手を差し伸べるが、健子はそれを無視。自分ひとりで立ち上がり、見繕いをした。
 健三は傍らの朽ちそうな、古いベンチに腰掛けて腕を組む。
「後悔したんだって、書いてあったの・・・初めの頃は・・・でも、日にちが経つにつれて、あなたのことを本当に、愛してたことに気づいたって・・・」つっかえながらも、母親の日記を読むように、健子は健三に話し続ける。

「エミ!あたりまえだろう・・・そんなこと!」
「私!絶対に生むから・・・」
「どうするんだよ!そんなこと言ったって・・・」
「私!ひとりでも、育てて見せるから!」
「・・・」
「授かった私の大事なもうひとつの命なんだもの!」
「勝手にしろ!」

 健三はあの言い争いから、恵美子とは別れてしまった。その後、恵美子の下宿先のアパートへ何度か電話をかけたり、恵美子の友達に尋ねたりしたのだが、さっぱり消息が判らなかった。当時の健三は、むしろわからない方がいいとも、思っていたのかも知れない。青春時代の許されざる、蹉跌というしかない。

 現在の大部分は、ある意味、過去の遺産からできている。突然、現在が生まれることはまれだ。でも、健三にはどうしても、信じられなかった。心底惚れて、恋い焦がれる健子が、自分の血を分けた娘だなんて。古女房を別れて、人生のやり直しをやろうと誓った健子が・・・。

 健三は信じたくなかった。

 健子は健三が座るベンチの反対側に、枯れ葉を払いながら、半身に座った。「わたしの運動会も、学芸会も、お母さんは一度も来なかったの・・・働きづめで来れなかったの・・・」
 故郷の両親や、親戚から見捨てられ、女手ひとつで自分を、育ててくれた母親を慈しむ健子を、父性愛でなく、ひとりの男として、愛おしさが溢れ出る思いだった。
「・・・」
健三は黙ったまんま、健子の話を聞くばかりで、思いを言葉に出来なかった。「道ばたに落ちていた王冠を、お金だと見間違って、拾おうとしたこともあったらしいの・・・」「・・・」
 健三はどんな言葉より、その言葉がより深く身に染みた。恵美子が、自分への愛情を全うするためにも、健子という命を育てた。そんな心の豊かさを、選んだために、経済的には困窮。迷走しながら生きた一生を思えば・・・。健三は言葉にならなかった。
「ほんとうに、愛しているのは、あなただと折に触れて・・・何度も書かれていたわ・・・」 
 健三は両手で耳を、塞いでしまいたかった。「ごめん!悪かったのは・・・このオレだ・・・」そう叫んで、健子を娘として、強く抱きしめてやりたかった。しかし健三は、両の膝頭を絞り切るように、両手で握りしめ震えるばかりだった。
 長年連れ添った妻冴子の愛情に、充分応えてやれなかったまま、逝かせてしまって、憔悴しきっている健三。そんな健三の心身に、追い打ちのごとく襲いかかる、信じがたい事実。彼にはとても、抱えきれないだろう。

「お母さんの日記を、読み終えたとき決心したの・・・」健子の話は、健三の息の根を止めんばかりのことだった。


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