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【小説】健子という女のこと(24)

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 夫婦は長年連れ添ってきたら、互いが空気みたいな存在になると、言い古されてきた。われわれは平穏な日常で、空気の存在すら、認知せず生活している。だが、一旦ことが起これば、その不可欠さを、痛いほど思い知らされる。空気がなければ、生きていけないのに、普段は意識することもない。
 一方、長年連れ添った夫婦同士が、日常その存在を、互いに改めて認知し合うこともなく、当たり前のように、平穏に暮らしていたいることだけを捉えて、空気みたいな存在と思われ勝ちだ。でも、本当の空気みたいな存在とは、とんでもない事件や危機が、互いの身に降りかかったときや、陥ったとき、互いにとって互いの存在そのものが、不可欠さをどれほど、備えているかということだろう。
 いいかえれば、有事のとき、お互いにとって、価値や必要性が、見出せなければ、本当の空気みたいな関係だといえないのだ。お互いが必要と思わなくなったとき、ひとつ屋根の下で、たまたま同居している、単なる男と女ということだけである。無色無臭ではあるけれど、決して空気ではなく、とんでもなく、命をも落としかねない毒ガス同士なのかも知れない。
 冴子は田端のただの同居人だったとの一言が、時の流れと共に滲み出て、偏頭痛を一層悪化させる思いがした。冴子は田端とは、お互いに無意識ではあるが、生きていくために不可欠な空気同士だと思っていたのに、実はとんでもない毒ガス同士だったことが、どうしても信じがたいことで、受け入れがたいことだった。
 黙って聞いていた健子が、立ち上がって、冴子を睨み付けていった。「田端さんは、母の墓前で誓ってくれたんだから・・・あなたと別れて、私と結婚するって・・・」
 冴子は田端の顔と、健子の勝ち誇った顔を、交互に見比べながら、己の自信が大きく揺らぐ思いがした。健子は、激しい冴子の眼差しをそらしながら、入り口ドア脇のトイレへ向かう。

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 冴子は健子がトイレに入っていくのを見届けて、田端の腕を掴まえ、「あなた・・・」と、ただ呟くだけだった。田端は自然と冴子の手から逃れ、ソファーに腰掛け、しばらく黙り込む。
「冴子!・・・」と、田端は冴子の目を見つめて、重々しく話し始める。そして、その次の言葉を話そうとしたとき、冴子は田端の視線が、突然自分の背後へ流れ、顔面の血の気が、見る見るひいていくのに怯えた。
「あなた!・・・どうしたの!・・・」冴子は背後に人の気配を感じながらも、田端の形相の急変を気遣い、田端の両肩に手をかけながら振り向く。
 冴子は振り向くなり飛び跳ね、田端の座るソファーの後ろに、腰を落し隠れながら大声で叫ぶ。「キャ~!」 
 冴子はソファーの端より、目から上だけ出して、震え、怯えながら、恐る恐る辛うじて言う。「あ!あ!あなた!・・・なにするつもり・・・」
 刃渡り二十センチはあろうかと思われる刃物を、震える両手で握りしめた健子が、冷ややかな厳しい眼差しで、冴子を捉え、にじり寄ってくる。
「健子!な!な!なっ!なにするんだ!やめなさい!」田端は狼狽しながら、両手を健子の方へ差し伸べて、健子を説得しょうとするのだが、健子は冴子を睨んだまま、まんじりともしない。
「バカなことはやめなさい!」田端の声は低くかすれてくる。冴子はただ震えるばかりで、ソファーの陰から動けず、不気味に輝く健子の刃物を見つめるばかりだ。


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