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【小説】健子という女のこと(19)

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 携帯電話の<自宅>の表示に気分が滅入った。

「おじいちゃんの居場所が判ったんだ!」東京の留守宅の息子から、行き先が判らなくなったいた認知症の父が、近隣センターの駐輪場で見つかったという連絡だった。今から迎えに行くところだが、お母さんが心配しているだろうから、電話したんだと、いって寄越したのだ。
 冴子は嬉しかった。父親が無事に見つかったということが嬉しかった以上に、ぶっきらぼうな言い方だったけど、母親が心配していることに、思いが及んだ息子の心根の優しさに、触れたことが嬉しかった。
 息子から、<母親>という名のカリキュラムの<終了証書>を、正式に貰ったような気分が全身に走る。そして、満身創痍の冴子は、幾分か癒されたような心持を味わった。
 冴子は携帯電話をバッグにしまいながら、ロビーをラウンジの方へ進みだしたとき、正面の自動ドアが開き、アベックが腕組んで颯爽と入ってくる。なにげなく、見ていた冴子は、田端に似ていると思っていた男性が、田端本人であることに、嫉妬心が燃え上がるのを覚えた。
 自分の娘のような女性と、愉しそうに腕を組んでいる。田端の顔は、かつて冴子に、一度も見せたことのないような、満面な笑顔である。連れの女性の顔を見、何か話しながら、こちらへ向かって来ようとしている。冴子はとっさに、ロビーの大理石の大きな柱に身を隠した。

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 連れの女性は三十路半ばで、目鼻立ちのはっきりした美人である。『この泥棒メス猫め!』冴子は呟いた。そして、その女性の横顔を見ながら、どこかで見たような、誰かに似ているような気がする。でも、心当たりがないようだった。

「ご無沙汰しております」

冴子は、腕組み仲良く受付カウンターへ向かう、ニセ田端夫妻を呼び止める。振り向きざま、冴子と目が合った田端は、時間が止ったように、身体全体の自由が全く利かない。
「しばらく!」金縛り状態の田端に、冴子は容赦なく追い打ちをかける。「・・・」田端には、返せる言葉が何ひとつ見つからなかった。何をどう話しても、今のこの状況を、平穏な日常に戻せる手だてが、田端には全く見い出せなかった。現場を押さえられた現行犯は、大人しくお縄>を、頂戴するしかない。それも誠に厳しい尋問つきの<お縄>である。
「部長さん!今日は社員さんの慰安旅行か何かですの」「・・・」田端は、冴子の独り舞台に付き合うしかなかった。「ヤナセ物産の神戸支店には、お二人だけでした?確か社員さんは、五十名ほどいらっしゃいましたよね?」冴子の追求の手が緩まることはない。健子は、冴子と田端のそんなやり取りを、訝しそうに、ただ眺めているだけである。

 田端は辛うじて健子に「家内なんだ」と、耳打ちした。


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