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【小説】健子という女のこと(23)

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「神戸に赴任した当初は、口煩いばかりのおまえから、離れられることだけが、嬉しかったんだ!炊事や洗濯などに、不便を感じたけれど、それもすぐに慣れた・・・」「・・・」冴子は、田端と健子が座っている真ん前で、ただ呆然と立ち尽くすだけで、何ひとつとして言葉にならなかった。
「おまえは、どうだったんだ?あの頃?おれは、おまえの何だったんだ?」田端の言葉は、冴子のこころの一番深いところに、届いているようだ。「冴子!あの頃のおまえは、口煩いばかりのおれの母親ではなかったか」田端は、長年の澱のように、鬱積していた思いが、とめどなく溢れ出てしまいそうに思った。
「私もなにも、あなたの母親なんかには、なりたくなかった・・・」冴子は、消え入りそうな小声で、田端に続けていう。
 健子は革張りの長椅子に、深々と頭を擡げて瞼を閉じている。そして、静かに二人のやりとりを聞いている。ときには、意地悪そうな笑みを交えて、無言のままで聞いている。
「あの頃、いつもそうだった!こう言えば、ああ言うって具合に、ひとこと言えば、その何倍もの言葉が返ってきた・・・」田端は憎しみを帯びた口調で、冴子に詰め寄る。

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 重苦しい時空が、三人を支配するかのように覆う。

 お互いが言葉を失ってしまったかのように、田端は腕組み、深々と腰を下ろした長椅子に全身を預け、組んだ右足のつま先を、小刻みに震わせている。冴子は、こめかみあたりを気遣いながら、黙して一点を見つめ、意識だけが激しい荒波を、当てもなく漂流しているようだった。
「何も、あなたの母親なんかに、なりたくはなかった・・・あなたの母親なんかに・・・」冴子は重たい唇で、弱々しく辛うじて、くり返していった。
 田端は足を組み変えただけで、それには返答しなかった。冴子は続けていう。「大切な相談の時だって、いつも真面目に返答してくれなかった・・・いつもと言っていいほど、おまえに任すからって、逃げていたくせに、今頃になって亭主風を吹かせないで・・・」冴子の口調が、激しさを蘇らせて、田端に被さる。「おれは仕事のことで、目が回るほど忙しかったんだ。いちいち家の細々したことまで相談されても・・・」田端は立ち上がって、冴子を睨んだ。「いつもいつも、子どものことばかりだった・・・」という田端の言葉に冴子は、私にしてみれば、あなただって子どもみたいなものだったと、言いたかった。でも、その言葉は飲み込む。「あなたなんかいいわ!仕事さえしていれば、それでよかったんですもの」冴子もまた、過ぎ去った日々に抱いていた、悲しみや、苦しさや、悔しさや、侘しさやらが、止めどとなく湧き出てくる思いがした。


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