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【小説】健子という女のこと(17)

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「次は下呂!下呂に停車しま~す!」

 冴子は、車内放送で眠りから覚めた。高山本線は飛騨川の蛇行に沿って敷設されている。列車は右に左によく揺れた。丁度、ゆりかごで揺られているみたいで、祭り見学の疲れもあって、冴子はすっかり寝込んでしまっていたようだ。
「おばさん!何か夢でも見ていたようですね・・・」キーボードの若者が、別れ際に声をかけてきた。怪訝そうに振り向く冴子に、「何度もごめんなさい!ごめんなさい!って誰かに、謝っていたようだったから・・・」
「・・・そんなこといってたの・・・」冴子は、今しがた覚めたばかりの夢に引き戻され、その場に立っていられないほどの脱力感に襲われる。まるで地面からの物凄い磁力にでも、吸いつかれそうに、座席にしゃがみ込んでしまう。
 それを見ていた、キーボードが、「謝りさえすりゃ!いいてことだよね」っていいながら、右手の親指を立てて、冴子にウインクして寄越した。でも、謝っても絶対に済まされないことは、世の中にはゴマンとあると思いつつつも、冴子は、キーボードに、作り笑いで頷くしかなかった。

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「列車で食べようって買ったんだけど・・・よかったらどう」冴子は高山駅で買った<遅い昼食>を、キーボードに預けて、ひとり下呂駅に降り立った。

 こころの奥底の奥にしまいこんでいた、触れたくない過去の出来事が、思い出の海原を漂い、永い時間経て現在という波打ち際に、打ち上げられたようだ。三十数年の月日は、いろんなものをいろんなように、変えてはきたけれど、無理矢理閉じ込めてみても、過去にあった嫌な事実は、決して何十年経とうが変わりはしないようだ。
 現在のほとんどが、過去からできているという現実を、冴子は憔悴しきった心身で、受け止めなければならなかった。田端の青春時代の蹉跌。エミに堕胎させたという、とんでもない蹉跌。夫婦ともどもに、鉛のように重たい十字架を、背負わされていることに、改めて覚醒する冴子であった。

 釣瓶落としの秋の夕暮れは、暮れるのがほんとうに早い。

冴子は駅舎を出た。ちらほら明かりが灯り始めた、温泉街に忍び寄る夕闇が、冴子の気持ちを一層曇らせる。考え悩んでもどうにもならないことは、受け止めるしかないのだが、そういうときに限って、考えてばかりする。
 少なくとも今は、過去に囚われている場合じゃない。これからの大事な将来が係わっている。
 ニセ田端夫婦の宿泊ホテルは、JR下呂駅の真ん前にある。これからの田端との折衝を考えると、冴子の足は、鎖に繋がれた重たい鋼球を引きずっているようだ。歩いて二、三分のホテルまでの距離が、何十キロにも思えるほど遠かった。



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