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【小説】健子という女のこと(31)

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 次の瞬間、健三の首にかかっていた、赤い紐がするりと頼りなく抜けた。

 健子が健三の足もとに、仰向けに転んでいる。枯れ葉に滑って、転んでしまったようだ。健三は咳き込みながら、その場にしゃがみ込む。健子はそれから、もう襲ってこなかった。
 健三は言葉を失った。墓石の<砂原家>の文字を、何度も目でなぞってみる。『砂原、砂原、・・・砂原』
 地べたに四つん這いの健子が、健三の背後から声をかける。
「お母さんは、恵美子といいました」涙声だが、はっきりとそう言った。
 健三は全身に、高圧電流が流れる思いがした。そして、みるみる血の気がひく思いがする。
「エミ!エミ!エ~ミィ・・・」健三の言葉は、その表現力を失くし、晩秋の常願寺の境内に、吸い込まれていった。そして、健三はこのまま、枯れ葉の海の底へ消えてしまいたかった。
「わたしは、砂原美恵子の娘です」健子は涙を拭き取りながら、静かにそう続ける。両肩を落し、項垂れる健三は、背中で健子の告白を受け止めていた。
「わたし、子どもの頃、けんこ!けんこ!不健康のけんこ!って虐められていました」健子は、<けんこ>としか読んでもらえぬ、<たけこ>という名前が嫌で、嫌でしかたがなかった。
 子どもの頃、学校から帰るなり、母親に「名前を変えてくれなければ、明日から学校へ行きたくない」って、駄々を捏ねたことがあった。そのとき、母親から「健子!この名前には、立派なあなたのお父さんの名前から、一字もらっているのだから・・・」って、聞かされ、健子は見たこともない、父の威厳に圧倒され、そのとき以来、名前について駄々を捏ねることはなかったと話す。
 健三は健子が話してくれる母親の話に、遠い日の恵美子の面影を重ねていた。「日記帳があったの」病院の母親のベットを、整理したとき、お布団の下から、写真と一緒に日記帳も出てきたと言った。

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「ちっちゃな字で、亡くなる前の日まで、びっしりと毎日書かれていたの・・・」健子はその日記で、すべてを知ったのだという。
 自分の名前の<健>が、田端健三の<健>であることを。そして、その父が、自分の存在を知らないことも、その日記に書かれていたのだと言う。
 健三は、遥かな過去に引き戻されて行く、物凄いエネルギーに身を任せるしかなかった。

「ロマンチックね」窓の外では、冷え冷えとした暗闇から、粉雪が舞い降りている。「ホワイトクリスマスだ」「ほんとうだよね」健三は抱えていたギターを、壁に立て掛けて、窓を眺める恵美子の後ろ側から寄り添った。
「エミ!」健三は両手を、恵美子の両肩にかけ、優しく小さな声で、恵美子の耳元に呼びかける。小さく身震いのような仕草を、ひとつして振り向いた恵美子。
 健三は思わず、その恵美子の唇を奪った。そして、健三と恵美子は一つになった。

 健三はしみじみ思う。あの夜、天井を睨みつけた恵美子の目から、頬を伝って耳へと流れたひとすじの涙が、健子のこの<赤い紐>に繋がっているのだと。それは、健三が二十歳で、恵美子が十九のクリスマスイブのことだった。


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