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【小説】健子という女のこと(27)

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「田端さんのご主人です」年輩の看護師が、一緒に入って来た当直医に紹介した。「奥様には、以前からこんな症状がありましたか?」当直医は軽く田端に黙礼し、腰を下ろしながら話し始めた。
「どこか悪いんですか・・・」田端は不安な面持ちで問う。単に健子の狂乱ぶりと、彼女の腹部から流れる鮮血に驚き、軽い脳しんとうを起こしただけで、二、三時間ほど安静にしておけば、快復するだろうと思っていたのだが。それは、どうも違うらしい。医者の口調と神妙な面持ちは、そんな予感を田端に与えるのだった。
 冴子は意識が戻らぬまま、まだ緊急処置室に寝かされていた。田端は年輩の看護師に案内されて、冴子のもとへやって来た。ドアを開けるなり、横たわる冴子が目に入った。田端の両手は、思わず拳を固める。無機質な機器類が点滅したり、回転したりしている。
 蝋細工のような冴子の顔が、その機器の仄かな灯りに、ときどき照らし出されては、見えなくなったりしていた。田端は二、三歩歩み寄ったが、それ以上足は前には出なかった。
 その場で立ち尽くす田端に、「何かありましたら、そこのブザーを押してください」ベッドの端に、括りつけてあるブザーを、示しながら年輩の看護師は言った。そして、今まで冴子に付き添っていてくれた、若い看護師を連れて処置室を出て行った。
 軽い会釈で二人を送り出した田端は、傍らの丸いパイプ椅子を引きよせて、静かに腰を下ろす。

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「以前から頭痛持ちではなかったのですか」先ほど、医師にそう聞かれた。東京と神戸との離れ離れの生活は、その物理的距離の隔たりよりも、お互いのことを、気に掛けたり、思い合うこともない、精神的な隔たりによる弊害の方が、より大きかったことに、改めて気づかされたのだった。
 最近の冴子が何に喜び、何に悲しみ、何に憤りや怒りを感じていたのかを、田端は思い巡らすのだが、何ひとつとして解答できない。鼻にパイプを、入れられた無表情の冴子の横顔を見ながら、暗がりの中で、轟音だけが聞こえてくる濁流に、飲み込まれていく思いに囚われていた。
「予断を許さない、危険な状態が続いております」医師は冴子の<死>を暗に、田端に覚悟させるような言葉で切り出していた。
「詳しいことは、検査結果がでるまでは判らないのですが・・・」と、前置きしながらも、「脳動脈瘤破裂による、くも膜下出血だろう」と、かなり確度の高い言い方だった。
 田端の頭の中で、くも膜下出血という言葉だけが、ぐるぐる回転しながら、だんだん大きくなり、頭の中を占領していった。
「脳動脈瘤破裂による、くも膜下出血の患者さんにとって、最も危険なことは再出血です。特にここ二十四時間以内が要注意なんです。再破裂で脳へのダメージが、より深刻になり、生命の危険性が高くなります。この再破裂を阻止するために、行われるのが手術なんですが・・・」呆然とする田端に、畳掛けるように話していた、医師の言葉がそこで止った。
「ウチのヤツはどうなるんでしょうか?」田端は気落ちした声で医師に、次の言葉を、督促するかのように詰め寄った。
「学会で東京へ出かけてまして・・・」医師の返答は、田端に厳しく辛く響いた。担当医師がいないので、名古屋まで行かなければ手術が出来ないのだが、今は安静にしておかなければ、より危険な状況を招くとのことだった。
 運を天に任せるしかないのだろうか?田端は言葉にならなかった。


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