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【小説】健子という女のこと(22)

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 お互いに遠く離れて、暮らすようになって、初めて明らかになった、冴子との愛情の希薄さが、単身赴任の五十路男の生活を、より空虚なものにさせたのは確かなことだった。そんなこころの隙間に、忍び寄った健子の情感は、田端を捉え、健子への思いを日増しに、増殖させていった。
 酒を飲んでは、たいした理由もなく、健子を殴ったり蹴ったりする夫の話を聞きながら、ときにはそんな夫を、この手で殺してしまって、自分が殺人者となって死刑になっても、健子が安らかで、平和な日々を取り戻せるためならば構わないとも思う。こんなにまで、健子のことが、大切に思える感情が、愛情でないはずがない。同情なんていう、他人事ではないのだ。健子への想いは、確かなる愛情にまで、昇華している。田端は、腕組して強く、そう自分自身に確信させるのだった。

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 田端は下呂温泉郷の夜景が拡がる、窓の深緑のカーテンを、両側からゆっくりと閉め終えた。そして、長椅子の健子の隣に腰かける。健子はいつものように、両手で田端の右腕を、極自然な仕草で取った。そして、夫婦気取りの健子は、田端の顔を覗き込んで、何かひとこと、ふたこと喋っった様子だ。
 黙って、その情景を眺めていた冴子が、強い口調で田端に叫んだ。
「あなた!どうなの・・・」「・・・」田端は応えなかった。「はっきりしてください」冴子は督促がましくいう。
 健子は田端の二の腕を引っ張りながら、甘えるような眼差しで、「はっきりと言ったげて」と、冴子と田端を交互に、見比べながら言い捨てる。「田端さんは、あなたと離婚するんだから!」健子は煮え切らない田端に、しびれを切らせて、冴子を強い口調で挑発した。
 田端はそんな健子を睨んで、制止させる。田端は健子が、冴子と会ってから、あまりにも豹変したことに、嫌悪感すら覚えはじめていた。小娘のよう気弱さを引きずっていた健子は、何処へ行ったのだろう。母を慕って蕎麦を食べながら、しくしく泣きていた健子は、何処へ行ってしまったのだろう。田端は戸惑うばかりである。

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 田端は重い口を開いた。

「冴子!判ったんだ!遠く離れて、ひとりで暮らすようになって、おまえとの結婚生活が、ただの共同生活をするだけの日々になってしまっていたことが・・・」静かに、そして冷めた調子で、話し始めた田端の言葉を、冴子が聞いているのか、いないのかよく判らない。
 冴子は右手の人差し指と中指で、こめかみあたりを押えながら、俯いて何かを耐えているようだ。今朝は早かったから、寝不足の片頭痛でも出たのだろうと冴子は思う。
「あなた!そんなことを思っていたの・・・」冴子は弱々しく応えた。「ただの・・・同居人同士だったんだ」と、田端は追いかけるようにいう。そして、ついに冴子に、言葉としたことで、田端は腹を括った。
「違うんでしょ!あなた!その女に誑かされてるだけなのよ!目を覚まして!お願い!あなた!」冴子は健子を指さしながら、二人の方へ歩み寄る。
「目を覚ますのは、あなたの方でしょ!」健子は前よりも、強い口調で近寄って来る冴子を罵った。「あなたには聞いておりません!」冴子は負けずにいう。


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