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【小説】健子という女のこと(25)

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 ドアを激しく叩く音が、緊迫する部屋に響く。

「お客様!お客様!」先ほどの冴子の悲鳴を、聞きつけた泊り客がフロントへ通報したのだろう。ドアの外では、ホテルマンが必死で、ドアを叩きながら叫んでいる。その様子を泊り客の数人が、取り囲んで部屋の中の様子を窺っているようだ。

 ドアの向こう側から、「お客様!いかがなさいました」

 健子がそのホテルマンの声に気を取られ、入り口のドアの方へ、振り向いた隙に、田端が健子の腕を掴まえた。「健子!放しなさい!そんなもの危ないから・・・」健子は力の限り、田端を振りほどこうともがく。
 次の瞬間、田端が止めたはずの腕力が、健子の手元の刃物に加わった。その鋭利な刃先が、健子の腹部を襲う。吹き出た鮮血が、健子の両の手を、真っ赤に染めた。
血で染まった自分の手を見て、健子は腹部を押えながら、その場に崩れる。
「あなた!どうしたの?・・・」ソファーの陰から、躍り出て来た冴子もまた、その状況を観た瞬間。絶句。その場で、気を失ってしまった。
 田端は刃物が刺さったまんまの腹部をおさえ、床に前のめりにお辞儀する格好で蹲る健子と、田端の足もとに崩れ去った冴子を交互に眺めて、呆然と佇むだけだった。

「お客様・・・」ホテルマンが合鍵でドアを開け、部屋へ叫びながら転がり込んで来た。

「救急車を呼んでくれ!」田端は健子を抱えながら、ホテルマンに、辛うじて告げる。冴子に駆け寄るホテルマンに、「動かさない方がいい!」ホテルマンと一緒に入って来た人たちの誰かが言った。
 ホテルの裏側にある、従業員の出入り口には、暗闇の中に赤色灯を回転させた救急車が二台待機していた。冴子と健子は、それぞれ別々の車に運び込まれる。「どちらかに、同乗してください!」救急隊員の一人が、冷静に田端に言う。
 田端は躊躇などしなかった。腹部を押えた健子の手が鮮血で染まっている。健子の状況が一刻を争うことぐらい、田端にも判断できた。一方、車内で酸素吸入され、静かに眠っているような冴子の症状からは、緊迫感が少しも伝わってこなかった。
 ステップに躓きながら、「早く!出してくれ!」田端は命令口調で、健子の救急車に乗り込みながら、怒鳴って言った。「受け入れてもらえる病院を探しております」救急隊員は、先ほど以上冷静に田端に応える。
「何処だっていい!できるだけ近くの病院へ・・・早く!.」田端の願い事は、車内に響く雑音混じりの無線の交信に阻まれ、隊員には届かなかったようだ。

 救急車が動き出した!

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 それまでに、多分二、三分ほどの時が流れただけなんだろうが、田端には何十時間も経ったように思えた。交差点毎に減速する救急車にイライラしながら、健子に呼びかけていた、「健子!しっかりしろ!もうすぐ病院に着くから」田端はそんな言葉を、むしろ自分自身に言い聞かせるように、健子の耳元で何度も繰り返していた。
 健子は、四十一号線沿いにある、総合病院の下呂第一病院に運び込まれた。その病院は緊急指定病院だったので、受け入れ準備が整っている。夜間緊急患者入口には、既にストレッチャーが用意され、三人のナースが待機していた。
 観音開きの救急車の後部ドアが、開かれれるのを待ちかねていたかのように、すうッと、ストレッチャーが寄せられ、健子は手際よくそれに、乗せ換えられ、薄明りの廊下の奥へ消えて行った。田端は、これで一安心だと思うのだった。
 薄明りの廊下の壁に、浮かび上がった<手術中>の赤いランプを、ぼんやりと眺めながら、田端は考える。健子が冴子に会ってから、あれほど豹変したことの訳を、理解しょうと静かに考えるのだが、答えはみいだせなかった。
 現実に冴子という生身の人間を、目の当たりに見たからといっても、あまりもの変わりようだ。妻の存在自体は、よく承知しているはずなのに・・・。田端は、あれやこれや考えながら、軽い睡魔に襲われかけていた。

 田端の胸元の携帯電話が、静まり返った薄明りの病院の廊下に、場違いな音量で鳴り渡る。
 

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