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【小説】健子という女のこと(了)

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「ここらで、一服しよう!」田端は混迷する営業会議を中断させた。
 田端はひとり、屋上に上がった。ヤナセ物産の神戸支店は、三十六階建て高層ビルの五階にある。屋上からは、六甲連山がくっきりと見える。会議で加熱した頭が、初冬の六甲おろしで、心地よく冷めていく思いがした。
 田端は大きな深呼吸をひとつして思う。
 この空気はまるで見えないが、生きていくためには不可欠だ。見えないが故に、普段誰もが、その存在すら思ったことがない。夫婦は空気みたいな関係が理想だとされている。ところが普段、互いの存在を気にかけなくなった関係が理想なのではない。本当の理想は、生きていくためには、お互いが相手にとって、とても重要なんだということを、忘れないでいることだ。その家族を結ぶ絆も、目には見えない愛情で固く結ばれている。目に見えないから、人は誰もが、判断を誤ることがしばしば起こるものだ。
「奥様を殺すつもりなんかなかったの!ご夫婦の愛情に嫉妬して、脅かすつもりが、あんなことになって・・・」多分、あの言葉は、健子の本心だったのだろう。
 あのとき、義父の様態を気遣う健三に、家族の固い絆を見たのだろう。そして企てようとする母親の仇討ちが、難しいことだと諦めざるを得ないことだと悟ったのだろう。
 別れ際の健子の言葉のひとつひとつを、改めて思い返してみる。
 母の日記に、健子を生んで本当によかった。私の生き甲斐だ。と、何度も書かれているのを読んだ健子は、母親の深い愛情で、育てられてきた自分という命に感謝したのだとも言っていた。
 日記を読み終え、閉じた時から、母親のあの苦労に、花として捧げるのは、まだ見ぬ父親への復讐しかないのだと思ったのだ。

 この男の幸せそうな人生そのものがとても憎い!

 でも、健三に巡り逢った当初、漲らせていたそんな感情も、鈍るときがあった。それは健三に、男を感じたからかもしれない。健子はそんなことを言いながら、健三に背を向けていた。
 人は誰でも、愛情という滋養がなくなったら、多分生きていくのに、随分苦労するだろう。恵美子は健子を心底愛することで、一生を全うした。健子はその深い母親の愛情に、支えられて生きてこられたのだろう。
 そんな母を亡くしてしまった、健子の憎い父親探しの旅は、無意識にも本能的に、父性愛を求めていたのかもしれない。でも、辿り着いた終着駅には、父親としての健三はいなかった。そこにいたのは、愛する男としての健三だった。でも、健子がいくら愛し苦しんでも、所詮添えない親子という宿命からは逃れられなかったのだ。

 でも、あなたを愛していました。

 衝撃的な健子の最後の言葉は、女としての言葉だった。さらに、健子は、「愛してしまったあなたを殺して、自分も死のう」と、病室で決めたのだ。そして、健子は別れ際言い残して行った。「わたしの父は、やはり遠い昔に死んでしまっていたのです。さようなら、もう二度とお逢いすることはないでしよう。・・・お元気で」

「部長!そろそろ始めますか?」部下によばれて会議に戻る田端部長を、一陣の六甲おろしが襲う。「おお寒い!」田端部長は、上着の襟を立てながら、身震いして健子の面影を振り切った。

 健三は自分のたった一人の安アパートに辿り着く。そして、明りも点さず、冷え切った暗闇の部屋に、会議で疲れた身体を投げ出した。会社で働くことは、今の健三に、一番の薬になっている。月日が経てば、記憶の海原の彼方へすべてが、運ばれて行くだろう。特に死別悲嘆などの人の悲しみは、時と共に和らいでゆくという意味する<ひぐすり>。
 今の健三には、その<ひぐすり>が、最良の妙薬かもしれない。ただ、がむしゃらに働くことで、思考の空の領域を、なるべく創らないように、頑張って行くしかない。
 健三は亡くして初めて知った、妻冴子の愛情のありがたさに、何度となく咽び泣いた。そして、人は本当に悲しい時、涙も出なくなって仕舞うことを知った。そしてまた、身体中の血が抜け出してしまったような、冷え冷えとした自分の身体に驚愕もした。
 冷たくなりかけた冴子の身体をゆすりながら叫んだ、「逝かないでくれ!」は、素直な健三の愛情の証しだった。

 アパートの前を通り過ぎる車のヘッドライトの明りで、時折照らし出される天井に、大の字に仰向けのままの健三は呼びかける。

「冴子!」

 憂いを帯びたその声は、一条の光となって、天井を貫き天国の冴子に届いたような錯覚を健三は覚える。人間は頑強にできているようで、実はとても脆弱なものだ。人という字が示すように、人はお互いに支え合って生きているものだ。そして、その支えは愛の力で持続されている。

 明朝、健三は冴子の四十九日の法要を、東京で執り行うため、まだ薄暗い初冬の冷気漂う、新幹線の新神戸駅に佇んでいた。

「冴子!エミとオレの子どもだったんだ・・・あの健子が・・・」健三は冴子の遺影を眺めながら、声にはならない言葉で、健子の全てを語って聞かせた。遺影の冴子が睨みつけた様にも、微笑んだ様にも、健三には思える。
「冴子!御免!許してくれ!」線香の燃え滓が、落ちるのを眺めながら、健三は言った。「何もかもオレが悪かった!」
「この世には、どんなに謝っても、済まされないことが、ゴマンとあるのよ!」何処からか、そんな冴子の声を、健三は手を合わせながら聞いていた。そんな健三は、誰かに肩を叩かれる。振り向いた健三に、「あんた!誰?」義父だった。「冴子は何処だ?わし!まだ何も食っとらん!」という、義父の言葉に健三は、無表情で応えるばかりだ。(了)


【小説】健子という女のこと を、最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。もちろん、全文がフィクションですので、登場する団体名などは、現存しません。万が一、同名の団体等がありましても、関係はございません。また、文中での説明文に、事実とは異なる場合が、あるかと思われますが、その節は作者の勝手な解釈だと、ご容赦いただければ幸いです。

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