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【小説】健子という女のこと(21)

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 山泉館の飛水閣・508号室は、和洋折衷の間取りに、改装されたばかりの部屋だ。元々は洋室の広間の隅に、丁度芝居の舞台の様に、床から三、四十センチの高さに畳を敷き詰めた、四畳半程度の和室が設えてあり、その二方向の襖は開け放たれている。その襖を閉めきれば、完全な和室になる設計だ。
 その奥はセミダブルの寝室兼居間になっており、一面ガラス張りの窓には、すっかり暮れ落ちた、飛騨の秋の宵が拡がっている。
 冴子はその舞台状の和室の端っこに腰を下ろし、膝には急場仕立ての旅行鞄を携え、無言で自分のつま先を眺めている。健子は窓側の応接セットの黒いレザー張りの長椅子に、深々と瞼を閉じて座っている。頭部を長椅子に預け、どことなく太々しさが漲っている。
 田端はそんな二人に、背を向け窓越しに、下呂の夜景を眺めている。眼下に拡がる温泉郷は、飛騨川に沿うような、豪華な柄の光の帯を思わせる。
 そして、それぞれの灯りのひとつひとつに、いろいろな喜怒哀楽の人生模様があるはずだが、少なくとも、今見えている、この灯りの下では、どこもかしこも全て、幸福な営みが行われているような錯覚を覚えるのであった。  眼下のJR下呂駅を高山方面へ、遠ざかっていく列車を、目で追いながら、健子との将来のことを考えていた。

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 三人の沈黙の時は、ほんの数分程度だったが、多分それぞれは、もっと長い時間と感じていただろう。その沈黙を破ったのは、冴子の携帯電話の着信音だった。
「おじいちゃんの替えズボンはどこなの」息子が、連れ戻した父親が失禁していて、ズボンを取り換えなければならないと、泣きださんばかりの声だ。明日は、東京に戻るから、今晩だけ頑張ってくれるように、何度も頼む冴子であった。
「お義父さん!具合はどうなんだ」電話を切る冴子に田端は聞く。健子は田端の微妙な感情の流れを、察知してか顔を曇らせ、田端を睨みつける。田端は素早く目を反らせた。
「最近、徘徊が多くなって・・・」冴子は、独り言のように、ぽつりと言った。田端はそんな冴子を、愛おしく思う自分を不思議に思う。
 この冴子と離婚して健子と結婚すのだ。健子を幸せにすると、健子の母の墓前で誓った自分が、愛想を尽かした古女房に、愛しさを感じる、己のこころの揺らぎを、眼下に拡がる夜景に問うてみる。
 人を愛するという行為は、自分のことよりも、その人のことをより大切に思うことだ。田端は常日頃からそう思っている。だとしたら、いま冴子に抱く、この愛おしさは、<愛情>の領域には入らない、単なる同情なんだと思える。知人や友人に対しても、同じ状況なら抱く感情だろうし、その証拠に駆け寄って、抱きしめてやりたい感情など沸いてこなかったのだ。
 ならば健子に抱く感情も、怪しくなってくる。酒乱の夫の暴力から逃れたいとの相談に乗るようになって、始まった健子との時間の中で、育んできたものが、単なる同情だけであったのじゃあないのか。ただ、健子の若さに対する情欲だけで、それに<愛情>の仮面を被せただけだったのではないのだろうか。
 田端は窓ガラスに、額を押し付け、揺れ動くこころの一切合切を、この夜のしじまの闇の中へ、放り出してしまいたい衝動に駆られるのだった。またしても、困難からの逃避癖が、頭を占領しかける田端なのだ。  


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