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「クライング・デトックス」について

訳もなく、涙を流したくなることが、ある。

ごく平坦な生活の中、何の変哲もない毎日において、「たまには感情を揺さぶられるような事物に触れるべきだ」と、意識的に泣くことが、多々ある。


誰しも、各々の日々を送る上で喜怒哀楽の起伏があるが、今の僕にはそれが存在していない。
人に会わず、話さず、時に悩めることがあったとしても、己という個体の中で全てが完結する生活。

この無味無益な日常、および、自己による、自己を取り巻く慢性的なストレスを打破するためのひとつの手段として、僕は、あえて感情的に泣くようにしている。


僕はこの方法を「クライング・デトックス(Crying Detox)」と名付け、生活に取り入れている。



概要

そもそもデトックスとは、「体内に溜まった有害物質を取り除くこと」を意味する言葉だが、その方法はさまざまである。

身近な生活習慣でたとえるなら、まず排泄なんかが最も分かりやすい例であり、その他にも、入浴や運動によって汗を流すこともそうだし、最近では、ダイエットのために断食して腸内環境を一から整え直すことも、デトックスと呼ばれている。

排泄や発汗など、体内の老廃物を物理的に排出することがデトックスであるなら、精神的なストレスを排除するための行動、すなわち今回のテーマである「流涙」もデトックスに値するのではないか、というのが僕の私見だ。


もちろん、笑ったり、大声を出したりすることも、ある種デトックスであると思う。

ただ、僕が重要視しているのは、「自分の肉体から出る、涙という生理現象で以て汚れを除く」というポイントであり、
筋トレに励む人が地道な動きでインナーマッスルを鍛えていくのと同様、繊細な気持ちを呼び起こすことで、より多くの感情的カロリーを費やすことが大事だと考えている。

※無論、この定説は僕の持論であり、医学・科学的根拠などは一切ない。



リスクについて

しかし、泣くという行為は、「意図的に感情を突き動かす」という点でカロリー(エネルギー)を要するため、精神的負荷がかかるのも事実である。

特に感受性の豊かな人や、デリケートな人は経験があるかもしれないが、感動する作品、すなわち、自身の感性に強く訴えかけてくるような事物に触れた後、ドッと疲労感に襲われることがないだろうか?


僕は、学生時代に芸術分野を専攻して以降、美術館や博物館で展覧会に参加したり、音楽や映画を鑑賞したりする際に、自分の持ち得る先天的な感性と後付けの知識がひっきりなしに思考を刺激するようになっていて、とても疲れてしまう。

たとえ正解がなくとも、作品を読解しようとすることで、体力的にも精神的にもエネルギーを使うのだと思う。
真新しいものに関しては、特に神経を使う


したがって、「クライング・デトックス」においては、デトックスを目的とする以上、前述のように神経負荷を増長させることは逆効果であるため、「ストーリーの展開を読めない難解なヒューマンドラマ」などは極力避けることをオススメする。



事例

では、クライング・デトックスに適した行動とは何か?

僕は個人的に、

・幼少期のエモーショナルに浸ること
・何度も見たり読んだりした(展開を知っている)作品を反芻すること


上記に基づいて、意図的に感動を味わうようにしている。


僕は、自分の育った家庭環境だとか、その中で肉親から受けた文化的素養に対し、並々ならぬコンプレックスを抱いている。

これは決してネガティヴな意味合いではなく、単に、僕は幼い頃、さまざまな形の愛を受容していたという事実が、今の自分との対比となり、がんじがらめに自意識が働いているといったところだろうか。

ある程度成長した頃に、当時親が意識していた教育方針などを教えてもらったのもあって、余計に感傷的になりやすいのだ。

そのせいもあってか、数年前、とある子供向けアニメ映画のサウンドトラックを耳にした時、一気に2、3歳の自分の記憶がフラッシュバックし、突発的に号泣してしまったことがある。

悲しいような、寂しいような、でもあたたかい包容力のある記憶が呼び起こされ、瞬時にセンチメンタルな気持ちになった。
そして、しばらく泣いた後、どこか一皮剥けたような気分になったのである。


また、きっと誰にでも存在している「いつ見ても泣ける作品」を鑑賞することも、既存のセンチメンタルに働きかけることが可能であり、僕はよく、作品内で好きなキャラクターが死ぬ場面を繰り返し見ては、飽きずに感涙しているのだ。


「クライング・デトックス」のための手段は選ばなくて良いと思う。

たとえば、「あのゲームのこの場面に出てくる脇役のモーションが好きで、動画配信サイトで見てしまう」とか、そういった至極些細なフェティシズムに刺さるようなものであったとしても、それで自分が気持ち良く「泣き」を実施できるのであれば、感動の規模を考える必要はない。



例外

とはいえ、やはり泣くことに対してハードルが高いと感じる人もいれば、そもそも泣くという行為にマイナスイメージ(「泣く=つらいこと」と感じるなど)を持つ人もいると思うので、「クライング・デトックス」にも向き不向きはあると思う。


現に、僕の父親は、それが感涙であったとしても、何故か人が泣いている姿を見るのが苦手なようで、僕もよく怒られてきた。

彼曰く、「泣くくらいなら笑え」とのことで、これもあながち間違ってはいないのだが、生理現象に羞恥心がある時点で、認知の歪みを感ぜざるを得ない。


確かに、ひとりで泣いていると、「誰もいないのにこんなもの見て独りで泣いちゃってる自分…」と面白おかしい気分になるかもしれないが、冒頭にも述べた通り、これは入浴や排泄と同等の行為であり、自分自身を浄化するための健康法のひとつに過ぎないので、自己を開放できる人から取り組むべきだと考えている。

ひとしきり泣いた後に虚しい気持ちになるようでは、効果を実感することは難しいだろう。
そのリスクを持ちあわせている人は、僕の父のように、お笑い番組を見て大声で笑う方が向いていると思う。




ここまで当たり前のように出してきた「クライング・デトックス」という言葉は、僕独自の理論であり、造語である。
無意識のうちに内包している日常のストレスを、涙と一緒に洗い流すことを意味している。

言葉としてピックアップされていないだけで、既存の方法であることは周知の事実であるが、これが概念として認知されることで、平凡な毎日の中にも、自分の感性に正直になれる時間が増えたら良いのではないかと思う。


この世の中において、各人が自分を保つための手段と選択肢を増やしていけることが最大の目的であり、同時に、泣き上戸や涙脆さは何ら恥じることではないと思えるようになれば嬉しい。

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