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自分のない自分。


今年のお正月、久々に再会した親戚と、石巻市への観光がてら日和山の頂上に位置する鹿島御児神社にも行ってきた。太平洋を望める山からの景色や、地元のキッチンカーの出店をひと通り見た後、一行の足はごくごく自然に本堂へと向いていた。初詣の参拝へつながる行列に並んでいたのだ。

鳥居を前にぺこりと頭を下げ歩を進める親族の姿を見て、僕は「俺いいわ」と後退りをした。彼らがお参りをしておみくじを引き終わるまで、僕だけは鳥居の外にいることにした。砂利をがじゃがじゃ云わせながら敷地内を練り歩いたり、立ち止まってスマホに時間を預けたり。それは初詣にも、あるいはおみくじにも、シンプルに意味を見出せなかったからである。お参りしたところで、運勢を示した文字を見たところで、今後の自分の人生にどんな影響があるのだろう。

客観的に見たら、いったい何を斜に構えているのだと思うかもしれない。いいから黙って家族と時間を共にしろ、なんてことも思うだろう。しかし、あの時は僕にとってアイデンティティをかけた、いわば自分との勝負だった。疑念を抱いたまま周りに流されていたら、“負け”のような気がした。いや、完全に“負け”だった。

思えば、これまで幾度となく初詣を強いられてきた。家族や友人など、もう誰かに誘われるがまま。いつも神社では、見よう見まねでテキトーに過ごしていたと思う。そんな“自分のない自分”と、今年は離れることができた。周りの親族が何を思ったかは知る由もないが、僕はこのアイデンティティを守り抜けたことに、大きな価値を感じてしまっているのである。


いつもいつもありがとうございます〜。