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すらすら読める 奥の細道  感想文

おはようございます!何百年かぶりに読書感想文なる物を書いてみます😀、いや学生の頃は作文ですらあんましまともに書いた事が無いですが💦、手書きとかめんどくさい事をしなくて良くなった今、拙いですが「すらすら読める 奥の細道」の感想を書いて行きたいと思います😀

感想は特に印象に残った章とと、最後に総合的にまとめを書きますね!


月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり (時の流れは永遠の旅人であり、行きて去る年もまた旅人である)

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より


僕が奥の細道を知った理由


https://x.com/gagmanga_biyori/status/1692551934106866034?s=46&t=UWAVu3KEOuwZjpni6YCfYw

ギャグマンガ日和 公式Twitterより

僕が松尾芭蕉や曽良を知ったのは、小学生の頃に大好きだった漫画とアニメのギャグマンガ日和(知ってる人いますか?)にで出来た通称 スランプでドMなバ○ジ○イこと松尾芭蕉😅、ドSで芭蕉に意地悪をする弟子の曽良てイメージ💦で史実とわかけ離れた内容で、馬鹿みたいな俳句を作ったりしていたのですが、漫画の中でもちゃんと史実と同じ俳句を作っていたので無意識ながらそちらも覚えていました😀

そして中学生になり、国語の教科書の古文に奥の細道が載っていました!月日は百代の過客にしてから始まる、最初の深川の章と、夏草やの平泉が載っていました。

ここで、実際の芭蕉に触れて深川の章を勉強した時は「ああめちゃくちゃ楽しそうじゃん芭蕉さん!😃ぜひフルで読んで見たいな」思ったりしていましたが、そん時はそれきりでした。

そして月日は流れていくのでした。

今読もうと思った訳


今は時間もあり、僕も大人になりいろんな場所に出かけて、旅行が好きになりました😀

noteをまともにやり出して、皆様の旅行記を楽しく読んでいるうちに、「有名で一番古い旅行記てなんだろ?」みたいなことを考えていたら、奥の細道を思い出しました。

そう思い出したし、「読んでみるか!原文と現代語訳があるやつがいいな」と思って、探していたら、こちらの講談社から出版されているすらすら読める古文シリーズで奥の細道がラインナップされていたのでこちらにしました😀。こちらのシリーズは現代語訳もですが、作者による解説も入っていてより分かりやすく読むことが出来るので僕のような初心者にもおすすめのシリーズです。


奥の細道とは?芭蕉についてのトンデモ説?


おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉紀行及び俳諧元禄15年(1702年)刊。

https://ja.wikipedia.org/wiki/おくのほそ道

奥の細道(中学校の国語の教科書では、おくのほそ道)は松尾芭蕉が1689年の元禄2年に崇拝する西行法師の500回忌に東北や北陸の歌枕や古跡を訪ねる旅だそうです。

西行といえば百人一首のこちらの歌でご存じの方も多いかと思います。嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな (嘆き悲しめと月はわたしに物思いをさせるのだろうか。 いや、そうではあるまい。本当は恋の悩みの所為なのに、まるで月の仕業であるかのように流れるわたしの涙ではないか。)

芭蕉は江戸深川(東京都江東区)から大垣(岐阜県大垣市)までの600里(2400キロ)を150日間かけて旅をしたそうです😀本を読んでる感じだと150日もかけていたなんて思いませんでした😅何日間か滞在したりした土地等はあったりしたのですがw。

以前なにかで見たのですが、芭蕉は伊賀の出身で忍者だった!みたいな話を聞きました😅芭蕉はこの時46歳で江戸時代の平均寿命は50歳くらいと言われていて、この当時ではもう老人でそんな人が1日40キロも歩けるわけがないてのと、5ヶ月にも渡る旅で、資金や通行手形が必要な時代にこれだけ自由に動き回れたのはなんかの任務をかかえてたとか、奥の細道と同行した曽良の日記では訪れた場所の日が違かったりするそうです💦。

行程図


深川

奥の細道で一番有名なところかもしれない部分ですね😃僕も最初に書いた月は百代の過客にしてー、から始まるところです。ここを読んでいて思ったのは芭蕉さんが大分ウキウキしてるなて😁旅をすみかとし旅に死にたい!道祖神も陸奥旅しろ!て呼んでるし、松島の月は見たい!とウキウキに準備してる芭蕉さんが浮かびます。僕も皆さんもそうかもしれませんが準備しながらこんなところに行きたいなーて思ってる時はかなり楽しいですよね😁きっと芭蕉もそんな気分だったんじゃないかなと思います。

草の戸も住替わる代ぞ雛の家

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より


草加

あまり有名な部分でないのかもしれませんが、個人的に面白かったの現在の埼玉県草加市あたりを旅している時の章です😃痩せた肩にかかった荷物が重たくて、人のくれた選別が邪魔に感じる💦と愚痴ぽい感じの芭蕉さんが面白かったです。


飯塚

今の飯塚温泉あたりに泊まった時は非常な粗末な場所に泊まり、夜になって雷雨に見舞われて雨漏りに見舞われて、虫に刺され、持病が出てきて寝られずに気が進まないけど馬を借りて、心細いけどこれからの事を考えて、気を取り直したとも見てビックリしました💦奥の細道て優雅に旅しながら俳句を読む旅のかと思っていたら、結構こんな大変な思いもしてたんだなと驚きました🤨

松島

旅の目的の一つでもある松島を訪れた芭蕉、日本一の美景と言うほどである😃!まるで美人が化粧をしてさらに美しくなった!という表現にクスリときてしまいました😁松島の月の海が美しくすぎて、絶景に心が奪われて句を読むことが出来なかったそうです。少し違うかもしれませんが、僕もたまに行きたいところに行けた時はテンションが上がって写真を撮り忘れることがあります。ちなみに芭蕉が言った?とされる「松島やああ松島や」は記述はありません、芭蕉が松島では俳句を作れなかったので曽良の句が書いてありました。

松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より

 

平泉

そして教科書にも載っていて、ここの平泉を訪れた時の芭蕉は皆さんもご存知かと思いますし、奥の細道でも松島に並ぶ見どころがある所だと思います!😀 

芭蕉さんが松島からほど近い瑞巌寺から平泉に向かう途中で道を間違えて石巻に行ってしまったそうです😅芭蕉ほの人も道を間違えるのですね😃。

無事に平泉に着いた芭蕉は藤原三代の屋敷跡や義経の館跡の草むらを見て、杜甫の「国敗れて、山河あり、城春にして草青見たり」と思い出して泣いてしまったそうです、すごい感受性ですよね芭蕉さん。そして有名なあの句を読みます。

夏草や兵どもが夢の跡

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より

そして、この後に中尊寺金色堂を見に行ったそうで、当時は今と違い野ざらしに立っていたそうで、一部は朽ち果てていたと💦

五月雨の降りのこしてや光堂

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より


最上川

船で最上川を下ることにした芭蕉さんは「水みなぎって舟危うし」とこの船旅で結構スリルを感じたそうです😅そして僕が一番最初に覚えた、個人的に思い入れのある俳句が出てきます。

五月雨をあつめて早し最上川

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より


山中

芭蕉は山中温泉でご満悦だったそうです😁なんと9泊もしたみたいです!宿の主人の父は俳句界では有名だったそうです。なんとここで曽良が腹痛いと言い出して伊勢の親類の元に下の俳句を書いて先に行ってしまったそうです💦

行きたくて倒れ伏すとも萩の空

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より

まあ、曽良さん山中温泉から伊勢は流石に距離があるし、そこまで体調悪くはないんじゃないか?と思う僕がいる🤣


大垣

そして旅の終わりの地にやってきて、曽良も伊勢からきて芭蕉の親しい人たちもやってきて、旅の終わりを喜び合い、いたわりあったそうです!😃いい終わり方ですね!どうやら曽良が「芭蕉さんが大垣に来るぞ!」と皆さんに知らせていたそうです😁、そして伊勢に船でいくぞ!と宣言して終わります。

まとめ

奥の細道を読んでみて思ったことは、いつの時代も旅に目的を持って行く旅の楽しさ、発信元は変われど旅行がこうだった!と発信する楽しさての変わらないんだなと思いました😀。

今の時代は歩きとかではなく、交通網が発達しているから何で目的地に行くのも一杯手段があります、芭蕉みたいに歩くの嫌だな💦みたいのは基本ないだろうし。

それでも行くまでのルートが大変で、行くの躊躇したり気が進まない事もあるけど、いざ着いて見たら「行ってよかった!最高だった」て気持ちになり満足感が得るのも旅行の醍醐味ですよね!

僕は旅先で死にたい!旅に死すのが見たいな気持ちは一切ありませんが「月日は百代の過客」の気持ちは持っていたいです😃本当に奥の細道は読んでよかったです!

次に自分で行く旅も、有意義なものにしたいと思います😃

蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

松尾芭蕉 奥の細道 深川 現代語訳 立松和平 すらすら読める奥の細道より

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