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重なったその先に 2024/02/16 -2

久しぶりに映画を観た、と思った。世界観に呑み込まれる映画を観た、という意味だ。映画を通して深く自分の中に潜っていき、元々ある、でも知らないことにしている感情に再開したような感覚になって、自分の中に呑み込まれる(=前述の世界観に呑み込まれる)、という体験に久々に出逢った、と思った。

しかも、その感情が「絶望」ときたら、これはもうしばらく浸るしかないような気がしている。呑み込まれている状態から少しづつ気配が消えていき、時にまた濃密になったり希薄になったりを繰り返しながら、静かに凪に戻ればいい。幸い、わたしは「絶望」とは普段から仲良くしているため(苦笑)、この共存は全く苦にならない。むしろ「おかえり」というくらいの気持ちだ。なので、浸ってはいるが(自分を)見失ってはいない。

この「絶望」は何と重なっていて、さらに何と重なっていくのだろう。光はあったが、光がなかった。そこに確実に光はあった。むしろその光は鮮烈で強烈すぎたのかもしれなかった。互いに互いを照らしていくことで磨きあげられ、影がなくなり、いや恐らくなくなったのではなく影も光へと昇華され、さらに強いそのままの光として、白く潔く、そして眩しかった。その眩しさは、闇を強く照らすだろう。普通の光では照らすことの出来ない闇をも、色濃く照らしだし、浮かび上がらせ、見ないふりなど到底できない程に。その光は美しい。だが、醜い見難い光だ。闇を濃く映し出す光は、ときにそれを見る人の目にそうは映らない。排除すべき闇、つまり受け容れられない恐れとなってその人を襲うかもしれない。そういう、「光」が「絶望」という名前になってしまうということがある、人を狂わせることがある、その人の内側にあるその人が最も否定している闇に強制的に光を当ててしまった場合、その人の闇がその人を超えて濃く照らし出され、その人を狂気で満たしてしまうのかもしれない。・・・そんなことを感じていたのだ、だから「光」が見えない気がしていて、わたしは今「絶望」の中にいる、と感じているということのようだ。

しかし、そういう自分が自分の中に確かに存在しながら、一方で冷静にこの事態を観察している自分がいる。どんなに理不尽であったり非道であったり救いがないようにみえることであったとしても、それがその人をその人から引き剥がすようなことだったとしても、闇で覆い尽くされるようなことであったとしても、それをこそ「光」と呼ぶのではないかと揺るぎなく信じるわたしがいるのだ。「絶望」は「絶望」ではなく、それこそが「光」だと、頭で理解できなくてもそうなのだと静かに凛とそこにある感覚を感じる。

これを書いて、わたしはどうしたいのだろう。その答えこそが、重なったその先に・・・・・・・・、見えてくるのかもしれない。



2024/02/16 -2 (42/366)


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