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愚かさって可愛いのかもしれない 2024/6/21

自分のことを「愚かである」と思ったことのある人ってどのくらいいらっしゃるのだろう。日付が変わって少しして、あと数時間で夏至点になるという今(2024/06/21 00:09:56)、わたしはなぜかこんなタイトルのnoteを書いている。

こういうときは、言葉の定義を初めに調べてから理解を深めていく、というのがわたしの常なので、一旦「愚か(さ)」という言葉について調べてみた。

1 頭の働きが鈍いさま。考えが足りないさま。「彼の言葉を—にも信じてしまう」
2 ばかげているさま。「戦争など—なことだ」
3 未熟なさま。
「この芸に—なるを見て」〈徒然・一九三〉
[派生] おろかさ[名]

Weblio辞書

わたしが使っている&認識している「愚かさ」は、未熟であるという意味に近いような気がする。至っていない、届いていない、足りていないというような感じだ。幼いということ、といってもいいかもしれない。

愚かさ=幼さであると定義してみれば、確かに"愚かさって可愛いのかもしれない"。わたしはこれまで、自分の中にある幼さという言葉で表される性質について、どうにかして隠そうとしてきたのだけど、どうやらそれはもう既に周りにバレていて、そういうところ(ガチで幼いところ)と高尚なところのアンバランスさや、幼さそのものによるピュアさ(自分で書いていて何だかこそばい)が、可愛いというのであれば、きっとわたしはとてつもなく可愛いであろうなと思ったりする。もろもろ、一旦棚に上げてます、じゃないとこんなこと書けないから(苦笑)

自分にとっては、もう少しちゃんと言語化すると、自分だけの思い込みの世界の中における自己評価においては、全く可愛くなんかなくて、むしろダメで価値がなくて意味もなくて役にも立たない/立つはずがないことが、 わたし以外からすると真逆の価値を持つことがある。世界はきっと、誰かの存在によって誰かゆるされるようにできていて、誰かの存在は必ず誰かをゆるすようにできている。人からゆるされるという体験が、そのひとを許していく。ここではゆるすということばをつかっているが、それは「愛す」という言葉に置き換えられる。そしてゆるすは「愛す」だけでなく、「認める」ことや「価値を置く」こと、そもそもここにいていいよ、そのままでいいよを受容するための魔法の言葉だ。

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ここまで書いて、寝ていた。
寝る前の意識も朧なときに書いていたことなのだから、たぶん自我の介在が少ないだろうと思うので(いつ寝たのかあんまり覚えていないし、いつ書くのをやめたのかも覚えていない)。次に起きたとき、世界は06/21の04:59で、その次に起きたときは07:28あたりだった。寝れない寝れないと思っていた割には寝ていて、夏至点は超えていた。夏至の日は雨は降らない気がしていたが、やはり晴れていた。それだけのこと。でも、それってとてもじわじわすることだなと思った。

さて、今朝は確認事項がいくつかあるからそれをして、少しドライブをして神社にお参りして、そのあとカラオケに行く…かもしれない。そしてそのあとまつ毛のメンテナンスに行って、そのあとは映画を観る…かもしれない。そしてさらにその後は、初めての試みで行ってみる、夏至のWS。

あら、なんだか忙しそう。それって、楽しそうってことかも。わたしの今日は、わたしだけで成り立っていない。それは、今日が夏至だから、というわけでは決してない。助けてもらって、支えてもらって、繋いで繋がって受け取って、また巡っていくその中継点に、わたしはいる。そしてきっと、みんなそれぞれにそうなのだろうとも思う。

だから、ひとはひとりでは生きられないし、土から離れても生きられない。空はいつもここにある。見上げても、見上げなくても。



2024/06/21 夏至🌞 (149/366)

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