感覚に沈む 2024/04/16
感覚に沈む。あまり言葉にならない、というかしようときてもできないとき。言葉というものそのものが、そもそもゲシュタルト崩壊してしまっているかのように、言葉という概念すらまるで知らないことのように、感覚が言葉に変換できないときがある。
昨日もそういう感じだった。昨日も、と書いたが最近は割と頻度高くそういう日があり、以前は焦っていたこともあったが最近はまったく焦らない。毎日noteを書くことにしているので、それだけちょっとひっかかる。でも言葉にならないのだから書けないので、一応書こうとしてみて書けたら書くし、書けなければ書かないことにしてからは楽になった。罪悪感さえ感じないようにいられれば、問題視しなくていいと思う。
無理やり感覚の世界から自分を分離しようとすると、ものすごい弊害がある。それが必要なときがあるのは重々承知の上で、いずれにせよなるべく心地よい方を選ぶ。流れが滞らないほう、自然と流れていくほうを選ぶ。息がしやすい方を選ぶ。そしてときには、今少ししんどくてもその先のわたしが息がしやすい方を選ぶ。
感覚に沈んでいるとき、自分の中にあまり言葉がなくなる。ただ感じていることを行動しているだけ。それはほぼ同時に起こっており、特になにか困ることはなく、自然と流れる自分を観察しながら「へーそうなるんだ」などと他人事のように体験していたりする。カードや星をよんでいるときと同じ感覚だ。最近はその辺の境界線がいい感じに曖昧になっていてとてもよいと思っている(油断は禁物)。わたしはすぐに世界を甘く観察してしまうから、それだけは注意しといた方がいいと思ってるけど、だいたい忘れていてあとから気付いたりする。そういうとこな、と思う。そして、それがわたしだな、とも思う。こういうのはきっと、「愛おしい」という感覚だと思う。そうやって臆面もなく書いてみて、書いた自分に「おおー」とか思って、ちょっとだけ恥ずかしい気持ちになって、でもそうだもんなぁとじんわりする。これがわたしだ、とまた思う。その繰り返し。
昨日は、「舞台 千と千尋の神隠し」を観にいった。全てのことは繋がっていて無駄はひとつとしてなく、導いて導かれて結んで結ばれて、昨日という日はすごい日だった。たまに、そういう奇跡みたいなキラキラのご褒美な日、時間がある。わたしは幸せだ。だからきっと、今日も感覚の中にたゆたっている。しないといけないことはある。折り合いをつけようせず、流れるように流す。抵抗しない。わたしがどうにかしなくてもきっとどうにかなる。がんばらないことだ。どこまでもたゆたうのだ、物事は最前に流れている。ありがたい世界、安心に満ちた世界に今、わたしはたゆたっている。
たゆたうと感覚に沈むは同じこと。今ここにいるわたしとノージャッジでどこまでも一緒にいるってこと。流れるように流れ、感じるように感じ、動きたいように動く。自我は介入してこない。心地よいなぁとわざわざ感じたくなるくらい当たり前に心地よい時間。いつの間にか、そういう時間を重ねられる自分になっていてうれしい。
2024/04/16 (106/366)
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