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人の気配、残像、景色に色を足す〜②

カラーリストになるということ、
なったことで変わったこと、
そして最近感じることを書いてみました。2600文字くらいあるので、3回に分けます。

ですので、よろしければ①からお願いします。

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 東京に出てきて美容室に勤め、絵画を見に行くようになった。それは色への欲求が幼少期の反動のように出てきたものだと自分では正当化しているが、それはただの詭弁である。

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 反動なんてたいそうなものではなく、ただ単純に興味関心が出ただけだ。色に突き動かされてしまっていた。人間、一度興味が出るとのめり込んでしまうのだろうか、休みがあると貪欲に色を探しに街へ繰り出していた。寺山修司の「書を捨てよ、街へ出よう」のフレーズが頭をよぎる、「街へ出よう」と。

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 最近カメラを手に入れた。撮るという喜びを噛みしめながら普段目にしている世界をファインダー越しに覗き見る。ピントを丁寧に合わせる。シャッターをおす。露出が合っていなかったので再調整し、もう一度ピントを合わせ、シャッターをきる。画面を見る。マスクの下でニヤつく。色が好きな自分ではあるが、写真を撮るときはモノクロの世界も好きだ。見慣れた通勤路もモノクロにすることで、新たな空気感とストーリーが生まれるような感じがする。色彩という情報をメデイアに載せないことで、生まれる世界が存在するのだ。

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 色の持つ情報は見る人に様々なことを教えてくれる。真っ赤な苺の写真を見るととても甘いと想像させるだろう。モノクロの写真は色の情報が無彩色でしかない。赤い苺はグレーに見え、見ただけではその苺の熟れ具合はわからないだろう。モノクロ写真の色を持たないという能力が、人間の想像するという能力に挑発しているようにも感じる。無彩色に色褪せることで、想像する頭の中でカラフルな世界が生まれているようなことなのだろうか。
 

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 色を並べる興奮は何ものにも変え難い。この興奮は色に興味がないとおそらく理解するのは難しいと思う。例えば積み木があったとする。赤、青と並んだ時、その隣に黄色をおきたくなるのが世の常です。人間が色を並べる際に生理現象的においてしまうと言われています。というのは自分の勝手な世の常です。インテリア、ポスターデザイン、ファッションにおいてもこの色の隣に、上に、下に、周りに何色を配色しようか考える時、とてもワクワクする。自分はトイレに行きたくてしょうがないようなソワソワ感を感じるが。

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 置いてみる、並べてみる、切り離してみる、重ねてみる、回してみる、ひっくり返してみる、貼ってみる、写してみる、いろいろな構築的組み合わせを考える行為自体に興奮してしまう。バウハウスで講師をしていたパウル・クレーはさまざまな実験を繰り返し、それを元にデザインを考えていった。そのことを「形式的手段とのお付き合い」と小難しいことをなんとも可愛らしく表現している。この茶目っ気はクレーらしさを感じさせる。構築的なプロセスにより色の配色は自由にそして無限に広がるのだ。

つづく

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つづき↓


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