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痛みとは何か

幼い子が道路を横切ろうとしている。まだかまだかと車が通らなくなるのを待っていた。
その子は左を見て車がいないことを確認すると急ぎ足で道路を横切ろうとした。
しかし、その子の見ていない隙に右側からトラックがものすごいスピードで突進してきていた。
まずい、間に合わない……!
「危ない!」

この状況でこう叫ぶ、あるいは脳内にこの念が現出する人間が多数であろう。しかし考えてみればこれは少しおかしな話ではあるまいか。

痛みがわかるとは

痛みがわかるとは一体どのようなことを意味するのだろうか。
これは語弊を恐れずに言うのであれば西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一に通じる部分があると考える。
つまり、私と他者(先の例で言えば幼い子)という主観と客観を隔てる壁というものが無くなり無意識に自分が幼い子になったかのような気分になるということである。

人が戦争を哀れむのも
恐ろしい拷問から目を背けずにはいられないのも
全てはこの痛みの共感性に起因するものである。

そしてこの共感性がまだ無意識的に働くということは自他の区別がついていないのではなく、他を理解し、また理解しようとする姿勢を示唆するなによりの証拠となる。
身体的な痛みだけではなく、精神的な、いわゆる心の痛みというのにも同じことが言えよう。我々人類は心の痛みをも知覚することができる。そしてそれは得てして人間関係に起因するものであることが多い。
別れ、破綻。「悲しみ」「苦しみ」「喪失感」という言葉そのものが心の痛みを表している。

本題に戻ろう。
痛みとは何なのか。まず身体的な痛みであれば科学で説明がつく。よってそれは専門家の意見を大いに聞くとする。
一方精神的な痛みであれば先のように人間関係に起因する喪失感や虚無感ということが言えるだろう。

もっと踏み込んで考えるのならば痛みの共感性とは何なのかと言うことだ。なぜ私たちは痛みに対して共感できるのか。
私はそれを他人の類似性に見たい。
他人と自分の違うところは?という質問に対しては当然さまざまな答えが考えられる。
顔。声。性格。価値観。などなど。枚挙にいとまがない。
では同じところは?と訊かれるとどうであろうか。
これは極論かもしれないが、「人間であること」というのが一つの解であることは確かだろう。
加えて私たちがそう答えられるということは人間と言うのがおよそカテゴリー化できるほど秩序立った生物であるということが言える。
身体。人間に共通するのは身体である。この物質的な存在を基に我々はそれを人と呼び、類似性を見出し、痛みを共感することができる。

そんなところではないだろうか。

今回も全く生産的でない意味の分からない記事を書いて、ここで終わりとしたいと思う。
くれぐれも自分が痛みを追わないように日々周囲に警戒して生きるよう努めたい。


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