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奴隷と自由

学問の始まり方

我々の生活に取り込まれている教育。そのすべては学問から始まった。
学問はどのようにして生まれたのだろう。今回はそれを考察する。


結論から言って、私は奴隷が学問を生み出したのだと考える。
そこでまずは奴隷について思索にふける。


古代ギリシャの奴隷制

記録に残る最古の哲学者が古代ギリシャの人物であることから、
古代ギリシャでの学問の始まりを推察すればよいと考えた。


かの哲学者アリストテレスは奴隷制を肯定した。古代ギリシャでは奴隷制は社会的に許容された慣習であり、人々にはそれが自然なことで必要な制度だと考えられていた。(ウィキペディア参照)
彼らは当たり前のことに疑問を持つことができなかった。


しかし私はこの「奴隷が所有者に余暇を与えたこと」によって、一部の所有者がその余暇の時間に身の回りのことに疑問をもち、ようやく本腰をいれて考え始めたと考える。そうして様々な仮説を立て始めたのだ。
つまりこれが学問の始まりなのだ。

然れどもこれはなんとも皮肉な話ではなかろうか。奴隷は所有者のために利用され、代わりに所有者は「考える」という人間最大の自由を手に入れた。

私が推察したこのことに感情を付与することは許されない。
これを事実として受け入れなくてはなるまい。

今回はすこし短くなってしまったが結論はこのようになる。

結論

奴隷制をごく自然なものとして取り入れた結果、人々に余裕ができて学問が始まった。


Column:現代の学問と奴隷

今、日本において多くの者が奴隷になっている。私は「勉強」と「学問」は似て非なるものと考えている。「勉強」は受動的な学習、「学問」は自発的な学習。
教育は我々の生活の一部となった。しかしそれ故にあまりにも地盤を固めすぎて応用が利かなくなってしまったという側面が見られる。
もとは学問であったものが勉強となり、勉強嫌いという子もでてきた。
当たり前だ。

我々は自由を取り戻さなくてはならない。この時代で自由を獲得するために奴隷はもう必要ない。余暇が生活の一部となったからだ。

学問とは元来何を対象としても良いのである。私も多岐にわたって様々なことを稚拙ながら考えてきた。(「春巻きと腹巻の類似性」とか)
数字や記号を用いて物事を考えてみるのも、それはそれで一興というものである。

――遊ぶ。興がる。その心持をどこか置き去りにする場面がしばしば散見されるこの現代で、私はふざけ続けたい。




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