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家庭内異文化コミュニケーション

母は沖縄の離島出身で、大学進学を機に上京した。
離島の中では裕福な家で、住み込みのお手伝いさんや従業員が居たり、ドーベルマンを数匹飼っていた。

一方、東京出身の父の実家は借家で、大家さんに押し付けられた雑種の犬を飼っていた。

懸命に勉強に励み、大学を出て公務員になった父。
推薦でお嬢様学校に入り、縁故で研究所の秘書をしていた母。
東京に居る母の親族は、事業主や大手企業の役員や医師や弁護士の妻など、非常にわかりやすいお金持ちで、バブル期の公務員はずっと馬鹿にされていた。

母は「東京の普通」に憧れて父と結婚したのだけれど、金銭感覚の違いは幼少期の私でもわかるくらい、悲惨なものだった。

私の1番小さい時の記憶は、公務員住宅を訪れた母方の祖母が無言で号泣していた姿で、幸せだと繰り返す母を心から笑顔にしたいという機動力となった。

上を見ればキリがないし、下を見てもキリがないけれど、若い公務員の給料は特に華やかなバブルの時代は貧しい暮らしだと言える。

慎ましいといえば聞こえが良いが、私は子どものいない大叔母の金銭援助で習い事や私立の学校に通わせて貰ったものの、寄付金の高額な従姉妹たちと同じ学校に通うことは叶わなかった。

特に父は教育費をかけて貰って大学を出たわけではなかったため、努力でどうにかすべきだという信念があった。
さらに、もしお金をかけるなら、男である弟にかけるべきだと訴えていた。

生活を案じながら沖縄に帰った祖母は、非常に若くして急死した。
母への遺言として「これから男の人に振り回される時代ではなく、女性も学をつければ自立できる時代がくる。教育を男女隔てなく受けさせてあげて欲しい」
30歳そこそこの母は、この言葉を大切にした。

お陰で私は、望む以上の習い事や教育を充分に受けさせて貰うことが出来たのだが、そのお金は母が昼夜問わず働いて得たものだった。

多様性が逆に重んじられる時代となった今、特にジェンダーに対してはボーダーレスを尊重する。
戦争を経験し、小さな島で一生を終えた祖母の発言は、半世紀以上経って当然になっている。

けれどもあの時代の小さな島では、そんな未来は祖母の叶わぬ夢だったのかもしれない。
もし祖母が生きていてささやかではあるが、金銭的自立を遂げた今の私を見たら、小さな小さな公務員宿舎で見せた涙とは違う涙を見せてくれただろうか。

多様性は普通ではない、ということを忘れてはいけない。

沖縄が日本という国になって半世紀。
時々観光客として訪れる島は、良くも悪くも変わっている。


#多様性を考える

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#離島
#教育
#ジェンダー

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