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中村うさぎの『私という病』はクソ

中村うさぎの『私という病』を読んだ。理由は『うさぎとマツコの往復書簡』が面白かったから(読書記録はこちら)。
元々マツコ・デラックスさんのファンで、彼女のエッセイは愛読している。中村うさぎさんについては名前を知っているものの、本も対談記事も読んだことがなかった。そこで以前からタイトルを知っており、かつAmazonの欲しいものリストにも入れていた『私という病』を読んでみることにした。

結論から言うとクソだった。途中で読むのをやめようかと思ったが、それでは読書記録なんて書けないし、そもそも最後まで読んでいない本についてクソも何も言えない。クソなのかクソじゃないのかを判断するために意地になって最後まで読んだ。そして最後まで読んだ結論がクソである。

どこがクソだったか。数百ページを通して根拠なき自論を展開しているだけという点。自論を展開するだけでも構わない。私は自論を展開するだけの物書きです、と名乗ればいいだけなのだから。私が気に入らなかったのは以下の文章である。

「女の性欲が怖いのは、自分が母親の性欲を恐れているからだ」と言うのであれば、「何故、自分は母親の性欲が怖いのか」というところまで論を掘り進めるべきであろう。だが、多くの男は、「俺にとって、すべての女は母なのだ」という結論で思考停止してしまう。(P112)

はあ、思考停止する多くの男を批判するのですね。しかし中村うさぎは1997年に起きた東電OL殺人事件について、彼女の心情を代弁するかのように妄想を展開している。

(東電OLが売春に至るまでのエピソード=妄想を書き連ねて)以上、まことしやかに書いてしまったが、これらはすべて私の妄想である。(P152)
東電OLが、周囲の男たちからどんな扱いを受けていたのか、私は知らない。だが、どんな扱いであろうと、彼女が自分の主体性を無視されて一方的に「女」としての価値評価を下されるということへの怒りと屈辱感を密かに抱えていたのは、いかにもありそうなことだと思う。(P162)

繰り返すが、妄想を展開している。その妄想は「ある夜、道玄坂にて」というタイトルで6ページにも及ぶ。一方で中村うさぎは自分の仕事に対する姿勢をこう語っている。

私の行為や作品を批判するなら構わないが、私の人格を「周囲の意向に唯々諾々と従う受動的人格」だなんて誤解するのは許さない。私は、いつ何時も、自分の意志で己の行動を決定している。特に仕事に関しては、絶対にその姿勢を崩さないよう心がけている。そうでないと、私は自分の言動や文章に、責任を取れないではないか。(P158)
このように己の「主体性」にこだわる人間だからこそ、男たちから一歩的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである。(P158)

以上のように、中村うさぎは自分の言動や文章に責任を取ろうとしているらしい。P162からの引用だが、中村うさぎは「東電OLが、周囲の男たちからどんな扱いを受けていたのか」知らない。それにも関わらず、実際に起きた事件をテーマに妄想を展開するのはいかがなものか。知らないのならわざわざ事件の被害者を利用して自分の妄想を代弁させず、自分自身の言葉で語れば良いのではないか。
とでも自分自身の言葉に責任を持っている人の書くものとは思えない。ダブスタの連続。読むに堪えなかった。

しかし、共感できた部分もある。

己の中の差別意識を正当化しようとして、逆に女を「神格化」するワケよ。「母」という聖域に祀り上げて、パンパンと柏手を叩いて、「よし、これで文句なかろう」なんて思ってるんじゃないでしょうね。人間性を認めない、という点では、露骨な男尊女卑論とまったく変わらん。下のものを上に持って来ただけじゃん。(P110)

この文章には、はっとさせられた。
就職活動をしているときに頻繁に見聞きした、「女性活用」「女性が輝く社会」に対する違和感の正体はこれだ。なぜ女性だからといって活用されて、輝かなければいけないのか。私は地味に普通に働きたいのに。それが中村うさぎが書いているとおり、「下のものを上に持って来ただけ」だと感じたせいだと思う。
とはいえ、そういう手段を用いることで女性の立場や雇用条件が良くなっており、女性が生きやすい社会になっていくという側面もあると思う。一方的に批判はできない。

数年間、名前だけを認知していて中村うさぎ個人については知らなかったが、もう彼女個人の著書を読むことはないと思う。

以上。

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