心の凪を一度は失ったとしても

私は生まれてから20年ほど、本気で恋愛をしたことがないままに生きていた。

人を好きになるという感覚が良く分からなくて、周りの友人の恋愛話や相談事に触れていても、正直羨ましいという感情は全く抱いていなかった。

不器用なので、自分の目の前のやるべきことをこなすだけでいっぱいいっぱい。
残りの時間は自分と家族と、気の合う数人の友人たちに使うだけで充分に幸せ。

他人の言動にいちいちあれやこれやと振り回されたり、ましてや不幸な目に逢うなんてまっぴらごめんだと。

まあ、そんなことを頭で考えるまでもなく、ただ好きな人というのが一向にできず、そのことに関して殊更気に留めてもいなかった。

20歳を過ぎてしばらく経って、人生でもっとも大きな不幸と苦しみの波がやってきて、日々を生きることで精一杯になった。

喉の奥がきゅうと締め付けられるような毎日を、数か月間必死で生きた。
気づくとその波は去っていて、私はなんだか脱皮をしたように別人になっていた。


自分の力で、自分の人生を漕いでいく、そのために行動する。
自分の限りある生を豊かなものにする。

そのことへの前向きなエネルギーで満ちていた。

そんなとき、私の勘がきっと恋をした。

「この人となら、私ひとりでいるよりもきっとよくなる」

「何が」「どう」「よくなるのか」
そのすべてが不確実で曖昧で無責任なはずの感覚に、不思議な自信がみなぎっていた。

それ以降、また私は変わった。

他人に心の平穏を乱されるなんてまっぴらごめんだったのに。
自分が2人に、いや3人、4人になったみたいに、考えることや感情の揺らぎが大きくなっていった。

「所詮他人」と、その揺らぎを防ぐための予防線を張れと、私がまた「戻ろう」としていることもあった。

しばらくすると、その虚しさも分かってきた。

大きな荒い波が去ったあとの凪いだ時間の安らぎは、
波が心をさらっていく前よりも、もっともっと平和で、静かで、優しくて、深いものだと気付いてしまったから。

心が揺れて、揺らされて、また深い安寧に包まれる。
それは、小説やドラマや映画の中での疑似体験では埋めることのできないものだった。

美しい風景を見たとき、「今となりにいれば」と思い浮かべる人ができる幸せと哀しさを、私は知った。

恋は心をさらっていく波のようで、愛は心に凪をもたらす。

青く生きる私は、きっとこの双方のはざまに漂っている。