さくら

今日は、久しぶりにダラダラとテレビを見た。

「毎週録画した番組を、食事の時間に消化する」
いつの間にか、それ以外の見方をしなくなっていた。

スマホには、いつでもアクセス可能なコンテンツがいくらでも溢れているし、CMは時間の無駄だから。


ダラダラとテレビをつけていたら、ヒットソング特集のような番組をやっていて。
紹介される曲たちと、それに乗せてパネラーたちが話すエピソードと。
何より全力で曲を歌う歌手たちの映像が、何だかとってもよくて泣いてしまった。

昔の曲を聴いて、
なんか今ってこういう「熱さ」ないよなぁと思ったり、誰かが誰かを想う気持ちって、尊いなぁと思ったり。


そんな中、やはり、森山直太朗さんの「さくら」は名曲だ。
わたしにとってこれは、震災を思い出す曲でもある。

さくらさくらただ舞い落ちる
いつか生まれ変わるその時を信じ
泣くな友よ 今惜別の時

この曲で描かれる「別れ」とは、「卒業」がイメージされることが多いだろう。

それまで、震災が起こるまで。
わたしにとっての「卒業」での「別れ」は、
物理的な「別れ」ではあっても、正直あまりピンときていない部分があった。
住所も連絡先も進学先も知っている、そんな友達との「別れ」であったから。


でも、2011年。
テレビか何かで、東北の高校生、卒業生たちがこの曲を歌うのを見て。
「別れ」を急に実感したのを覚えている。
もう会えないかもしれなくて、また会えることを「信じる」ことしかできないということ。

2011年、当時小学5年生だったわたしたちは、6年生にありがとうとさようならを、きちんと言えないままにお別れせざるを得なかった。

その時、「ああ、この人たち全員と一緒に会うことってもう2度とないな」
と思ったのを覚えている。

以降、自分や身近な人が「卒業」という節目を迎えるたび、「ああ、もうこの人たちが全員で集まれることってないんだ」と思うようになった。


出会いと組織は奇跡だ。
システムがあるから人は集まることができていて、その囲いから出れば、もうみんなが同じ方向に集ってくることなどない。

残酷な現実と、だからこそ感じる、その時間の尊さ。

人に簡単に会えなくなったこの世の中、また考えさせられる。

ああ

ただ五十音順で苗字が近かったからという理由で理科の実験の班がいつも一緒だったあの子。

身長が近かったから、体育のウォーミングアップをいつも一緒に組んでいたあの子。

みんなみんな、元気にしてるかな。
すべてを知りたいとは思わないし、その権利もないと思うけど。

みんなの人生がみんなにとっていいものであるといいなと願っておく、この距離感がまた、尊かったりするのかもしれない。

#日記
#大学生
#エッセイ
#別れ
#卒業
#さくら
#震災