ラベルを貼っているような
何でもかんでも
『〜だからこうなんだ』と結びつける事がなくなりました。
例えば人から誘いを受けた時
あまり行く気分じゃないから断るとして
でも断ったらせっかく誘ってくれたのにかわいそうかな…
という『相手をかわいそうだ』と思う事も結局は自分自身がそのラベルを貼っているというだけなのだとわたしは思うのです。
あの人幸せそう
あの人辛そう
あの人大変そう…
色々なラベル。
自分の心の中でそう思ってる分には良いと思うのですが
そのラベルを取り出して相手に勝手に貼り付けるのはいかがなものかと思います。
自分自身の存在や在り方は自分以外の考えや言葉によって決まりません、それは家族や親しい人であっても。
わたしはそう思っています。
でも、相手が自分をどう思ってるかは自由なところであり制限もできません。
その人の心の中はその人だけのエリアだから。
その思ってる事を口や態度に出してきて不快な場合は『不快だからやめて』と言えます。
胸にぽっかり穴が開くような悲しいことがあったからかもしれないし
それとは全く関係ないかもしれないし
ここ一年『こうしたい』と思ってた事への意識が薄くなりました。
どうこうしようというのをやめて、今の日常の時間をもう少し丁寧に味わいたいなと。
興味持ってた人や事柄に対してあまり気にしなくなるのは、飽きたからかもしれないし
だからと言ってこの先ずっと何も思わないかと言えばそうでもないと思うのです。
これはこれ、それはそれ…で何も結びつかない。
結びつけてるとしたら自分自身です。
なんだか興味なくなったから、この先もいいや
と思う事も自由ですし
今はあんまりだけど、またやりたくなったらやろうって思うのも自由。
好きな人に対しても言えると思います。
なんとも思わなくなったという事は=嫌いってことでもないんじゃないかと。
『ただ、考えなくなった』だけ。
好きなら24時間考えるでしょ!という人には
それは好きじゃなくなったと言えるかもしれないし
好きだからと言って四六時中考えるわけでもないでしょ?という人には
好きじゃないということにはならない。
そしてそういう時は、自分自身に集中しているということでもあるし
他にも好きなことや充実した何かがある時なのかもしれない。
それか、とても疲れていて自分のこと以外に今は意識を向けられない。
どちらにしても、矢印が自分に向いてるなら良いのではないかと。
ひとつひとつ
自分の状況や自分の目が見ている現実を受け入れて見つめるという事は
自分自身の本音や感じているものを見ることでもあります。
それ自体がどうこう、というよりも
それを通して自分はどう感じて、どうしたいか、どう在りたいかを知る指標のようなもの。
自分が納得しているか
自分は心地良いのか。
寒くなってきたので
温かいスープを飲んでゆっくりと秋の夜を過ごそう。
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