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リベラリズムの限界(中)~世界化の終焉~

シリーズ・リベラリズムの夜明け」問題提起編②
~世界化の終焉~

今回は短め。
考察って言うか問題提起だけ。


「だめ!!私とあなたは敵国同士…。結ばれてはいけないの…!!」
「地球に国境線はない!!そんなもの、他の人間が勝手に作っただけだ!!俺たちに関係ない!!」

こんな展開をドラマか何かで見たことがある。なんとも感動的な話であるが、右翼で無感情機械人間である私(矛盾の塊)はふと、こう思ってしまった。
「いや、国境線はあるだろ」と。

しかし世界は、現実としては「国境」という概念をなくす方向へと政治的に舵を切ってきた。

そしてそれによる弊害も、無視できないところにまで来ている。

例えば、経済学者のダニ・ロドリック氏は「三つのトリレンマ」について語っている。
これはすなわち政治的・社会的に「グローバリゼーション」「国家」「民主主義」の三つのうち二つの組み合わせのみしか選べないというものである。
「グローバリゼーションと国家」を選べば「民主主義」を選べず、「民主主義と国家」を選べば「グローバリゼーション」は選べず「グローバリゼーションと民主主義」を選べば「国家」は選べないと言うことである。
その結果が格差拡大や多様性の衝突、それによるポピュリズムの台頭や移民排斥ではなかろうか。
この数十年間、グローバル化と言えば、ほとんどの人にとってサービスや資本といった分野の全面的な自由化・世界化を意味した。
ある種の欧米的な価値観である民主主義そして市場主義に基づく経済ルールが世界中で共有されたのである。
しかしその結果、米シカゴ大学教授のラグラム・ラジャン氏の指摘にある様に、世界は
「成功者の子供だけが成功するアッパーミドルクラスの楽園」
となってしまった。

前回の Note にも繋がる話だがこのような社会構造を構築した民主主義あるいはエリートへの不満というものは大きい。

グローバリズムは確かに経済的な自由をもたらしたが、それは裏返せば「世界中で競争してくれ」という物でもあるのだ。
それは果たして「我々が豊かになり、人間らしく生きる」事が出来る概念なのであろうか。

この様な世の中で、人々が共存し合い、出来得る限り自由あるためにはどうすればいいのか?
我々は豊かであり続けるために、人間らしく生きるために、グローバリズムから撤退するしかないのか?
シリーズ後半のリベラリズムの再興(中)ではこの疑問に答える形で記事を書きたいと思う。

今回は短めではあるがこれで終わりたい。


前回:リベラリズムの限界(上)~民主主義の終焉~

記事執筆者

筆者:涼月(鈴付き猫)
→twitterアカウント(https://twitter.com/Suzutuki_neko
→noteアカウント(https://note.com/ryou_suzutuki

編集部の記者一言紹介!!
涼月さんは共同体主義と行政学に興味を持っている関西の大学生!
最近、大学の単位を大量に落として落胆(落単だけに)しているらしい

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