見出し画像

十六夜俳句サロン

まさに耳福な美しい言葉が降ってくる夜だった。

『幻の句に溺れて十六夜俳句サロン』


久しぶりに向き合う俳句に少しの楽しみと心の重さも感じながら1人でたどり着いた会場。
終わった時には俳句の魅力に取り憑かれたいつかの日のようにわくわくして、言葉に溺れていた。


電車が時折、光を連れて過ぎていくのを眺めながら始まった俳句サロン。


講師の神野先生が感じる俳句の魅力は知っているようで知らない魅力だった。
俳句には余白があるから、17音の外側に活きた(生きた)人の感情がある。生きていて感じていることはあるけど、伝えられない、言語化できない伝えたいことを俳句にする。
俳人は月が出ていなくても喜んだりとその状況を楽しんで詠む力があると。少し皮肉めいているけれどその景色さえも愛おしいと。
俳句に出会った頃を思い出す。日常が非日常のように美しく世界が煌めいて見えた気がしたあの日々。

時代背景と俳句のお話が面白かった。
和歌は美しさを詠んでいて、
俳句には俳人たちの美しいだけじゃない風景
や感情があり、俳句を思想の提案として世間に訴えているのだと知った。
新しい季語を使用したりと時代と共に変化している俳句恐るべし。
昔の人の俳句は堅苦しくて難しい。そう決めつけて偉人の句なんてほぼ読んだ事が無い自分が恥ずかしい。


神野先生が話す、季語のはたらき。
言葉にならない、言葉になる前の感覚を季語に託す。
例えば、うれしいの種類を正確に伝えるための季語。
季語を入れることによって、その俳句の味が決まる。カレールーみたいなものだよ。
カレールー?となったがその表現がふいに腑に落ちた。
もちろん日本語には感情の種類を伝える漢字もあるし、表現もあるけれど、季語という比喩であったり、いろんな要素やイメージ、質感、温度、色とか膨大な情報が詰まっているのだ。
俳句を作る時間がない頃に詠んでいた歳時記。季語から季節を感じて、美しい日本語を見ていた頃があった。
俳句にいれなきゃいけない使命感の季語だったけれど、いれなきゃいけないというか入れてこそ17音で伝わるんだと知った季語の話。

鈴木しず子の俳句について。
写真で昔の岐阜市を見たりすることはあっても俳句で昔の岐阜市を知ることはあまりできないと思い、貴重な体験。
食べるというのは生きることだ。という神野先生の言葉。
後藤さんと神野先生のクロストークでは、女性の強さと優しさが光る。生きた時代は違えど、共通するものではないかと。
17音だけで自分のどの部分も伝えられてしまうという可能性と怖さも感じた。


常にいろんな言葉で俳句について伝えてくださった神野先生。

俳句という17音を神野先生が音に変えて、解説をしていただけると
紙の中にいる言葉がうごめき出す。

俳句が俳句になっていく瞬間というか、感情を含んだ言葉になっていくのを感じた。

言葉に 俳句に 触れていたい
と思った十六夜俳句サロン楽しかったです。 

句具さん   かかみがはら未来文化財団

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?