最近の記事

1961(昭和36)年の寺田ヒロオと新漫画党

新漫画党4年も前にトキワ荘を出た寺田だったが、新漫画党の会合という名目で時々トキワ荘に顔を出してはいた。 1961〜1962年にかけて6回、新漫画党機関誌「新漫画党」を発行している。 当時の党員は7人(寺田ヒロオ/藤子不二雄/鈴木伸一/石森章太郎/赤塚不二夫/つのだじろう)。 途中で園山俊二が加入する。 アニメーションの道にすすんだ鈴木もすでにトキワ荘に住んではいなかったが、会合には顔を出していたようだ。 つのだじろうは東京の生まれで実家からスクーターで通っていた。 それ以

    • 1960(昭和35)年 寺田ヒロオ 講談社児童まんが賞受賞

      講談社児童まんが賞1959(昭和34)年の講談社 創業50周年を記念して講談社三賞(児童まんが、さしえ、写真)を創設。 選考の結果、翌年の1960(昭和35)年11月に第1回 講談社児童まんが賞として下記2名が表彰された。 寺田ヒロオ「スポーツマン金太郎」 永田竹丸「ピックルくん」 講談社の創業50周年記念事業としては、三賞以外にも「週刊少年マガジン」「週刊現代」の創刊というのもそれにあたる。 講談社としては、この記念すべき第1回受賞者は、本来ならば講談社の漫画、でき

      • 寺田ヒロオと棚下照生

        たなかてるお(棚下照生または棚下てるお)。 本名は同じ読みの田中輝夫。 昭和9(1934)年3月宮崎県延岡生まれ。 昭和26(1951)年 16歳で上京。 17歳で貸本漫画「ハンスと魔王」でデビュー。 22歳「ヒマラヤ天兵」がドラマ化。 26歳 ノイローゼ?で約4年間少年漫画が描けなくなる。 30歳 大人向け漫画描くようになる。 代表作「めくらのお市」 棚下は14歳頃から「漫画少年」に投稿し、その縁で寺田ヒロオと文通するようになる。 先に上京した棚下が寺田にも上京を促し、そ

        • 寺田ヒロオと映画

          藤子不二雄A「まんが道」を読んでいると、トキワ荘のメンバーはよく映画を観に行ったという印象を受ける。 実際、藤子不二雄の二人は映画が好きで、そこから発想を得た作品も多数ある。 石森章太郎、赤塚不二夫の二人も金はなくともよく映画を観に行ったと。 手塚治虫も自身も映画好きであり、若手・新人漫画家たちにも「映画や音楽に触れなさい」とよく言っていたらしい。 しかし実は寺田ヒロオに関して言えばこれらの話は当てはまらない。 好き好んで映画を観ていた連中と、頭痛を我慢して観ていた寺田

        1961(昭和36)年の寺田ヒロオと新漫画党

          1959(昭和34)年 少年サンデー創刊「スポーツマン金太郎」

          サンデーとマガジン1959年3月 小学館「週刊少年サンデー」、講談社「週刊少年マガジン」が同日創刊。 「少年サンデー」編集部は、すでに漫画家としてビッグネームだった手塚治虫にまず声をかけ、その次に声をかけたのが寺田ヒロオだった。 当時「鉄人28号」で人気だった横山光輝には忙しいため創刊号からの連載は断られたが、いずれ連載描いてもらうことを確約(「伊賀の影丸」が2年後の1961年から開始)。 他にも藤子不二雄にも声をかけて人気の漫画家たちによる新連載を確保した(「少年マガジン

          1959(昭和34)年 少年サンデー創刊「スポーツマン金太郎」

          寺田ヒロオとアシスタント

          寺田ヒロオは漫画家としてアシスタントを雇うことは一度もなかった。 正確には、アシスタントをつかうことができるような性分ではなかった。 昔の漫画家は、自分の家で、自分独りだけで漫画を描きあげるものだった。 だが、描き下ろし単行本よりも月刊誌連載の漫画が増えるにしたがって、人気漫画家 手塚治虫はとてもひとりでは間に合わなくなってきた。 最初は家族や編集者に手伝わせたり、徐々に新人やデビュー前の漫画家に目をつけて原稿を手伝わせることがたびたびあった。 石森章太郎、安孫子素雄(藤子

          寺田ヒロオとアシスタント

          1958(昭和33)年 人気作家 寺田ヒロオ 27歳

          連載5本→6本に昨年から継続の連載が3本、さらに1月号からの連載が2本、そして集英社「おもしろブック」6月号から新連載がはじまり、5誌に6本の連載を抱えることになる。 内訳としては、プロ野球漫画1本、少年野球2本、柔道漫画1本、残る2本「ラッキーちゃん」「五九六さん」は、少年が主人公の学園漫画?的内容。 「背番号0」(芳文社「野球少年」) 「スポーツマン佐助」(芳文社「野球少年」) 「ラッキーちゃん」(講談社「幼年クラブ」) 「ホープくん」全17回(講談社「ぼくら」1

          1958(昭和33)年 人気作家 寺田ヒロオ 27歳

          1957(昭和32)年 寺田ヒロオ、トキワ荘を出る

          芳文社「野球少年」前年にはじまった「背番号0」は大人気漫画になっていた。 「野球少年」という雑誌名だが、当時の目次をみると、時代漫画、剣豪漫画、西部漫画などが並ぶ。特に野球に特化した内容だったわけではなさそうだ。 そんななかで、素朴な少年野球を描いた「背番号0」は等身大の物語として子どもたちにうけたのだろう。 ヒット作を生み出した寺田にとことん頼ることにしたのか、なんと128pの別冊の依頼がくる。 「まぼろし球場」(野球少年 1957.4月号 別冊) これは自分ひとり

          1957(昭和32)年 寺田ヒロオ、トキワ荘を出る

          1956(昭和31)年 寺田ヒロオ「背番号0」

          「野球少年」前年に読切を2本描いた「野球少年」から今度は連載の依頼がくる。しかも野球漫画。 依頼された時点ですでに「背番号0(ゼロ)」というタイトルまで決まっていた。 1956.1月号からはじまった連載は大人気となり、1960.4月号まで続くことになる(全52回)。 そしてその後も他誌で続きが描かれていく、寺田の代表作のひとつとなる。 さらに、他社からもいくつも仕事の依頼が来る。 頼みの綱だった「漫画少年」は前年に休刊となってしまったが、明けたこの年くらいから急激に人気漫

          1956(昭和31)年 寺田ヒロオ「背番号0」

          1955(昭和30)年 寺田ヒロオと新漫画党、そして「漫画少年」休刊

          「漫画少年」寺田ヒロオにとって初めての連載「ホントカシラ博士」は「漫画少年」1954年10月号で終了したが、引き続き「漫画少年」での仕事多数手がける。 1月号 読切2本「三三が三平」「300円物語」各6p 2月号 読切「まめまき」1p 3月号 読切「投書家ボクちゃん」8p 4月号〜 新連載「白黒物語」全7回(〜休刊になる10月号まで) 春増刊号 読切「あわてんぼ」2p 他社からも仕事の依頼 また、他社からも本格的に依頼が来るようになる。 「なかよし」(講談社)1

          1955(昭和30)年 寺田ヒロオと新漫画党、そして「漫画少年」休刊

          1954(昭和29)年 寺田ヒロオ、手塚治虫、藤子不二雄

          1953(昭和28)年大晦日にトキワ荘に入居した寺田ヒロオは、年が明けてひとまずは「漫画少年」ほぼ専属作家のような状況だった。 連載「ホントカシラ博士」(1953.11月号〜1954.10月号まで) 1〜8月号 合作特集(坂本三郎、永田竹丸、山根赤鬼・青鬼らと) 1、2、4、5月号「絵ときまんが」 3月号〜 読者投稿ページ「漫画つうしんぼ」担当(〜1955.10月号休刊まで) 寺田ヒロオと手塚治虫手塚治虫は寺田ヒロオよりも1年近く前から、完成直後のトキワ荘に住んでい

          1954(昭和29)年 寺田ヒロオ、手塚治虫、藤子不二雄

          〜1953(昭和28)年 寺田ヒロオ上京、トキワ荘へ

          寺田ヒロオ 昭和6(1931)年8月4日 新潟県に生まれる。 昭和23(1948)年 寺田ヒロオ16歳の春、旧制中学から高校二年に編入。野球部に入る。 漫画と出合う。井上一雄「バット君」に感銘を受ける。 (学童社「漫画少年」は同年1月号が創刊号) 友人と漫画の同好会をつくる。 おそらくはその直後あたりからいろいろな漫画誌の投稿コーナーに作品を送っていたようだ。 「漫画少年」12月号で初めて投稿漫画コーナーに入選する。 昭和24(1949)年  「漫画少年」4月号 

          〜1953(昭和28)年 寺田ヒロオ上京、トキワ荘へ

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か④ 赤塚不二夫の場合

          赤塚不二夫 同人誌グループのリーダー石森章太郎についていくようにトキワ荘入居。 当時はシャイな美少年、たまに少女漫画を描くくらいで石森のアシスタントのような生活。 他作家の穴埋め原稿で描いたギャグ漫画が評判で連載決定。 その後「おそ松くん」「モーレツア太郎」「天才バカボン」などギャグ漫画で次々ヒット作を生み出し、ギャグ漫画の王様と呼ばれる。 その“筆を折った”時期については、後段に“筆を折る直前の『暗闇五段』”と書いてあるので、1964(昭和39)年に週刊少年サンデーでの

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か④ 赤塚不二夫の場合

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か③ 石森章太郎の場合

          石森章太郎 本名 小野寺章太郎 宮城県出身。出身地の石森(いしのもり)から石森章太郎と名乗るが、「いしのもり」ではなく「いしもり」と読まれてばかりのため、のちに石ノ森章太郎にペンネームを変更。 地元宮城にいた頃から若くして漫画の天才と言われ、高校在学中に漫画家デビュー。 寺田ヒロオに誘われて上京し、トキワ荘入居、新漫画党に加入する。 代表作は「サイボーグ009」「さるとびエッちゃん」「仮面ライダー」など 藤子不二雄A(安孫子素雄)は、『突然のリタイヤについて寺さんは、ぼく

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か③ 石森章太郎の場合

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か②

          鈴木伸一 ラーメン大好き小池さんのモデル 寺田ヒロオ、藤子不二雄に続いて、漫画家を目指しトキワ荘の住人になるが、徐々に目指す道が漫画からアニメに移り、トキワ荘を出る。 鈴木伸一がこう語ったと書かれているが、これはなんとも随分ふんわりしているというか、具体的な描写のない話だ。 しかもここで問題なのは、この筆者下山進自身が『テラさんは、30代で自ら筆を折ってマンガ家を廃業してしまう。』という前提ありきで話をすすめているところだ。 というか、鈴木伸一がここで語っているのはま

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か②

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か①

          「まんが道」で“テラさんは自分の漫画をやめちゃった”と描いた藤子不二雄A。 「まんが道」自体は、エンタメ作品としてフィクション、ノンフィクション入り混じったストーリーになってはいる。 では藤子不二雄Aは、フィクションとして“テラさんは自ら筆を折った”と描いたのか? どうやらそうではなさそうだ。 藤子不二雄Aのトキワ荘時代の日記を一冊の書籍にまとめた「トキワ荘青春日記」は昭和56年(1981年)に刊行された。 そのリメイク版「いつも隣に仲間がいた/トキワ荘青春日記」の『“あ

          「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か①