寺田ヒロオとアシスタント

寺田ヒロオは漫画家としてアシスタントを雇うことは一度もなかった。
正確には、アシスタントをつかうことができるような性分ではなかった。

昔の漫画家は、自分の家で、自分独りだけで漫画を描きあげるものだった。
だが、描き下ろし単行本よりも月刊誌連載の漫画が増えるにしたがって、人気漫画家 手塚治虫はとてもひとりでは間に合わなくなってきた。
最初は家族や編集者に手伝わせたり、徐々に新人やデビュー前の漫画家に目をつけて原稿を手伝わせることがたびたびあった。
石森章太郎、安孫子素雄(藤子不二雄A)、松本零士などが手伝ったエピソードがよく知られている。

やがて専属のアシスタントを雇うようになる。
藤子不二雄も忙しくなってきた頃から、アシスタントの女の子を雇うようになった。
それを羨ましく思って、赤塚不二夫も女性アシスタントを雇う。しかもその女性と結婚してしまう。

おそらくそれらと同じくらいの頃だろう(1958年の連載5〜6本抱えた頃か、もしくは翌年の週刊連載はじまった頃?)、実は寺田ヒロオも女性アシスタントを雇おうとしたことはあるにはある。

「どうにも忙しくなって、アシスタントのわかい女性を入れてみたことはあるんです。それも実際には、使いかけた……というほうが正確ですね。ぼくの性格で、他人に側にいられると気になってしょうがないんですね。早く彼女の作業分を回さなくてはと思ってイライラしたりしてかえって能率が落ちるので、アシスタントに頼るのはあきらめました」

梶井純「トキワ荘の時代」(ちくま文庫)より

寺田の娘はこう書いている。

父の場合は、他人が側に居ると仕事に集中できないという理由で、何人か居たアシスタントにはすべて辞めてもらい、結局(幸か不幸か)手先が器用な母がベタ塗りの手伝いをする事になるのだが、本来ならばゆっくり休みたい筈の産後間もない母にとって、生まれたばかりの兄をおぶっての連日のベタ塗りは、1日の平均睡眠時間が2時間程の父と共に、まさに修羅場であったと思う。

「少年のころの思い出漫画劇場 寺田ヒロオの世界」(講談社)
寺田紀子「はじめに」より

自分が生まれる前の話なので父母どちらかあるいは両方から聞いた話なのだろう。
「何人か居た」という話が正確なのかどうかはわからないが、とにかく寺田は、漫画描きとしては素人であろう妻にベタ塗り程度手伝ってもらう以外は、どれだけ人気で忙しい時期でも、たったひとりですべて描きあげていたのだ。

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