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1956(昭和31)年 寺田ヒロオ「背番号0」

「野球少年」

前年に読切を2本描いた「野球少年」から今度は連載の依頼がくる。しかも野球漫画。
依頼された時点ですでに「背番号0(ゼロ)」というタイトルまで決まっていた。

「『野球少年』の編集長の構想には、そのころあった『エノケンのホームラン王』という映画があったらしいんです。あこがれのジャイアンツに入れてもらったエノケンが、マスコットみたいになって背番号0をもらうんですが、そんな感じの内容を考えていたようです。でも、プロ野球など当時は実際に見たこともないし、テレビもないので、少年野球ならなんとか描けると思うといったら、それでいいからということで始まったものなんです」

梶井純「トキワ荘の時代」(ちくま文庫)より

1956.1月号からはじまった連載は大人気となり、1960.4月号まで続くことになる(全52回)。
そしてその後も他誌で続きが描かれていく、寺田の代表作のひとつとなる。

さらに、他社からもいくつも仕事の依頼が来る。
頼みの綱だった「漫画少年」は前年に休刊となってしまったが、明けたこの年くらいから急激に人気漫画家と言えるくらいの仕事量となった。

講談社

藤子不二雄の穴埋めに尽力した「ぼくら」からその後連載等の依頼は来なかった。
しかし、「ぼくら」よりもこちらの方が寺田のテイストに合っていると思われたのか、同じ講談社の「幼年クラブ」から別冊や読切の依頼がどっさりとくる。

  • 新年増刊号「おてがらノンちゃん」6p

  • 3月号別冊「パー子ペー吉」48p

  • 4月号別冊「チイチイパパちゃん」80p

  • 5月号「なかよし金太郎」14p

  • 6月号別冊「坂田金時」32p

  • 夏増刊号「だまりちゃん」8p


「おてがらノンちゃん」
(幼年クラブ 1956新年増刊号)
「坂田金時」
(幼年クラブ 1956.6月号別冊)

5月号「なかよし金太郎」、6月号「坂田金時」おそらくこれが寺田がはじめて金太郎を漫画に描いたものではないかと思う。

ぼくら」からも連載ではないが、少しだけ依頼は来ている。

  • 夏増刊号  まんが訪問記「浅草の観音様」5p

まんが訪問記「浅草の観音様」
(ぼくら 1956夏増刊号)

これは漫画というより絵と文で構成された紀行文のようなものだ。
他にも、11月号には新漫画党合作も掲載されている(連載打ち切りされた藤子不二雄も載っている)。

合作「これができたらえらい」
(ぼくら 1956.11月号)

それ以外にも、前年に引き続き「講談社の漫画絵本」にいくつか短い漫画掲載しているようだ。

小学館

前年11月に6p漫画「ふしぎなじどうしゃ」を掲載した「小学一年生」の方でもいくつも仕事の依頼、しかも別冊など一回あたりのページ数も多い。

  • 2月号「あかいたまとあおいたま」8p /別冊「いっきゅうさん」40p

  • 3月号別冊「ももきちものがたり」32p/「まほうのふえ」40p

  • 4月号〜?「いっちゃんくらぶ」(読者のおたよりページ)担当

  • 10月号別冊「イワンのばか」48p

  • 11月号別冊「ニルスのたび」40p

  • 12月号別冊「ひこいちばなし」40p

「いっきゅうさん」
(小学一年生 1956.2月号別冊)
「イワンのばか」
(小学一年生 1956.10月号別冊)

光文社

光文社「少年」では4月号〜12月号に「クイズ兄弟」を連載。
これはページの下段1/5くらいのスペースに掲載されるミニ漫画。

「クイズ兄弟」
(少年 1956.7月号)

トキワ荘と新漫画党

2月 森安なおや鈴木伸一の部屋に居候。
4月 石森章太郎が上京してくる。新漫画党に加入。つのだじろうも誘いにより新漫画党加入する。
5月 石森章太郎がトキワ荘に入居。姉由恵も上京してきてトキワ荘入居する。
5月 坂本三郎がもう漫画はやめると新漫画党脱退(アニメーターに転身)。
7月 鈴木伸一が漫画家ではなくアニメーター目指すとトキワ荘退居。森安なおやは家賃払わぬままその部屋に居残る。
7月 赤塚不二夫、新漫画党加入
8月 赤塚不二夫、トキワ荘入居
11月 森安なおやが家賃半年分払わぬままトキワ荘から出ていく。寺田がかわりに払う。森安は漫画の依頼がきてもロクに手をつけず雲隠れすることも多々あり、それらの行為のせいで新漫画党からも除名処分とされる。

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