「テラさんは筆を折った」と言ったのは誰か④ 赤塚不二夫の場合

赤塚不二夫

同人誌グループのリーダー石森章太郎についていくようにトキワ荘入居。
当時はシャイな美少年、たまに少女漫画を描くくらいで石森のアシスタントのような生活。
他作家の穴埋め原稿で描いたギャグ漫画が評判で連載決定。
その後「おそ松くん」「モーレツア太郎」「天才バカボン」などギャグ漫画で次々ヒット作を生み出し、ギャグ漫画の王様と呼ばれる。

寺さんが、突然、筆を折った。
「自分が描きたい雑誌がなくなった」

「赤塚不二夫が語る64人のマンガ家たち」(2017.10 立東舎文庫)より
(初出は「バカボン線友録」1995 スポーツニッポン新聞)

その“筆を折った”時期については、後段に“筆を折る直前の『暗闇五段』”と書いてあるので、1964(昭和39)年に週刊少年サンデーでの「暗闇五段」の連載が終了して“筆を折った”という認識なのだろうか。

暗闇五段」最終回は1964(昭和39)年の週刊少年サンデー 31号(7/15号)に掲載された。
しかしこの年の寺田の仕事を見てみると

  • 背番号0」(「ボーイズライフ」小学館)4月号〜11月号

  • ロボット兄弟」(「小学四年生」小学館)9月号〜1965.3月号

と、7月以降も二本の月刊連載があった。これでは“筆を折った”とはとてもじゃないが言えない。

ところで、赤塚不二夫は別の本ではこのように書いている。

突然、筆を折ったのは、昭和46年頃のことだ。寺さん、絶頂期のただなかだった。
「どうして突然、マンガやめちゃうんですか?」
「やぁ、もう僕が描く本がなくなった」

「赤塚不二夫120%」(2011.4.6 小学館文庫)より
(初出は「赤塚不二夫120%  死んでる場合じゃないのだ」1999 アートン社)

先ほどの発言と6〜7年ほどずれている。ずいぶんと怪しくなってきたが、一応昭和46(1971)年あたりの寺田の執筆活動を調べてみると

  • 1970.7月号〜1971.3月号「ナンバーワンちゃん

  • 1971.4月号〜1972.3月号「カーブくんドロップくん

  • 1972.4月号〜1973.3月号「ロボット兄弟

掲載はいずれも「小学二年生」(小学館)。
と、月刊の学年誌の連載ひとつだけという状況が続き、1973(昭和48)年3月号の「ロボット兄弟」を最後に学年誌の連載もゼロになる。
ただ、その後もいくつか読み切りの作品を描いてはいる。

筆を折ったのは、昭和46年頃”という言葉は、当たらずとも遠からずと言えなくもないが、逆に“学年誌に毎月1本の連載”の状況が果たして“絶頂期のただなか”と言えるのかどうか……。
(忙しかった頃の寺田は、月刊連載3〜4本 + 週刊連載1:つまり月4本 + 増刊読み切りなど、という頃もあったのでその頃がまさに絶頂期と言えよう)

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