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1961(昭和36)年の寺田ヒロオと新漫画党

新漫画党

4年も前にトキワ荘を出た寺田だったが、新漫画党の会合という名目で時々トキワ荘に顔を出してはいた。

1961〜1962年にかけて6回、新漫画党機関誌「新漫画党」を発行している。
当時の党員は7人(寺田ヒロオ/藤子不二雄/鈴木伸一/石森章太郎/赤塚不二夫/つのだじろう)。
途中で園山俊二が加入する。
アニメーションの道にすすんだ鈴木もすでにトキワ荘に住んではいなかったが、会合には顔を出していたようだ。
つのだじろうは東京の生まれで実家からスクーターで通っていた。
それ以外のメンツはまだトキワ荘に住んでいたが、実はこの年にその全員がトキワ荘を出て行く。

8月 園山俊二が寺田ヒロオに誘われて新漫画党に加入
8月 寺田ヒロオに長女誕生
8〜10月 石森章太郎が世界旅行に出かける
10月 藤子不二雄の2人がトキワ荘を出て川崎に住む
10月 赤塚不二夫が結婚のため転出
11月? つのだじろう「ばら色の海」第二回 講談社児童まんが賞 受賞
12月 石森章太郎 転出

寺田ヒロオ

「週刊少年サンデー」

スポーツマン金太郎」はいまだ人気。
別冊サンデー」の正月号・春号・夏号に読切版も描いている。

同時連載していた「背番号0(ゼロ)物語」は「少年サンデー」では1961年6号で終了。
そのかわりに「小学四年生」「小学五年生」「小学六年生」の三誌にまったく同じ内容で「背番号0」を連載(1961.4月号〜1962.3月号)

「一九六〇年春に「背番号0」が終わった(『野球少年』が休刊になった)あと、小学館のほうで「背番号0」を学年別雑誌に描いてくれという話があったんです。それがきっかけとなって、『少年サンデー』に描くようになったんです。  (中略)
 同誌に寺田の二作品が連載されたのは、一九六〇年〜六一年初頭にかけて足かけ八カ月ほどのことである。こうして一度は学年誌への連載を逡巡しているが、小学館からの再度の要請をうけて「背番号0」が三度描き始められる。「読者が一学年に限られてしまうみたいで。描きにくい」という寺田の気持ちにたいして、版元側が同時に三つの学年誌(『小学四年生』『小学五年生』『小学六年生』)への連載を配慮したことが寺田を決心させた。

梶井純「トキワ荘の時代」(ちくま文庫)
「小学六年生」1961.4月号
同じく「小学六年生」1961.4月号

その他の作品

  • 『こども家の光』(家の光協会)1月号〜12月号 「タマちゃんの野球日記」12回

  • 『小学一年生』4、5月号 「きんちゃん

  • 『小学三年生』10月号 読切「ゴンちゃんとビーンボール

  • 『野球少年』冬号 読切「おのりはおはやくねがいます

野球少年』は残念ながらこの冬号で休刊。
同じ芳文社の『痛快ブック』も間をおかず同年中に休刊してしまう。
週刊少年誌「サンデー」と「マガジン」に人気を奪われるかたちで、この頃から月刊誌が次々と休刊していく。

『こども家の光』1961.1月号
「おのりはおはやくねがいます」
(『野球少年』1961冬号)
おなじく「おのりはおはやくねがいます」
(『野球少年』1961冬号)

「サンデー」と「マガジン」

少年サンデー「伊賀の影丸」

週刊少年サンデー」は、創刊前から声をかけて連載を確約していた横山光輝の待望の連載がはじまる。
たくさんの忍者が入り乱れて戦い殺しあうこの忍者バトル漫画は、たちまち人気作となり1966(昭和41)年まで連載が続く。

少年マガジン「ちかいの魔球」

人気・売上でサンデーに勝てないマガジンは、打倒「スポーツマン金太郎」を目標に、そのほのぼの路線とはまったく別路線の野球漫画をスタートさせる。

(やはり人気のスポーツは野球だ。野球をテーマにもっとリアルな人間ドラマを描きたい)
 原作者には、直木賞に3度もノミネートされた福本和也(1928〜97年)を起用した。産業スパイ小説を書く本格的な作家でありながら、新聞記者出身ということで新しいものにも理解を示し、マンガへの偏見もなかった。
  (中略)
 こうして、出来上がった作品が『ちかいの魔球』である。

大野茂「サンデーとマガジン 」(光文社新書)

ここから「少年マガジン」のスポ根路線がはじまり、「巨人の星」「あしたのジョー」へと続き、やがて「少年サンデー」を追い越す人気となる。

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