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もっとだいじなことを見つめながら一緒に生きていきたい

何かをつよく望み、それに向かってひた走ることができる喜びを忘れてしまうほど、わたしたちは豊かに育ってしまった。豊かすぎて、望まない。
だいたいなんでも手に入る世の中。
ほとんどの人間が自ら得ようとせず、
与えられることを待って待って、
与えることがなんなのか、よくわからないこととなってしまったように思う。

幸いわたしの周りにはがめつく愛しい友人たちで溢れているけれど、ひとたび外の世界を見渡すとそうでもないひとがたくさんいることに気づく。

そういう、そういうことを考えはじめると
わたしは
炎天下の更地の上で、窒息しそうになりそうな苦しさを覚えてしまう。水とか空気とか陽の温度とかではなく、無音の狂気に飲み込まれてしまうような、そういう苦しさ。

誰に助けてもらえるわけでもなければ、
自分の救済の方法すらわからない。
ただただもどかしく、悲しく、そういう悲しさや辛さに苛まれている自分すら恨めしく思うほど、しんどい。

世の中には、そして人の人生には様々な痛みや苦しみや問題が常に横たわっている。
それを横目に、お酒を飲んで楽しんだり、旅をしたり、色恋に溺れたり、猫と昼寝をしたり、絵を描いたり、文章を書いたり、映像を作ったり歌を歌ったりしながら、一瞬のきらめきを糧にみんな目一杯生きている。

常に辛いことに目を向けざるを得ない人もいれば、そんなの見ずに知らずに楽しく生涯を終えるひともいるし、生きていくために無理やり蓋をしなければいけないこともある。

どんなふうに生きてゆくか、
どんなふうに問題に取り組むか、
それはそれぞれがそれぞれであって然るべきで、そこに文句を言う権限は誰にもない。

だけどわたしは、(こうして相手の見えない場合でも)誰かと相対した時には、なるべく極限まで正直で在りたいととても思う。わたしは数年かけてすこしはできるようになった気もするけれど、それでもやっぱり、自分ではない誰かに自分の裸を見せるくらいに”さら”の状態でいなければならないことは、とても難しいことだと思う。

けれどわたしは信じて疑わない。
素直にされた分だけひとに素直になれること。
正直な言葉には正直な言葉を返せること。
愛された分だけひとを愛することができること。
愛した分だけ、ちゃんと愛が返ってくること。

このところ、だんだん暖かくなってきて体温が上がり、脳みそまでぼんやりとしてきた。立夏も間近で、わたしの嫌いな26度目の短い夏がやってくる。そんなに焦ることないじゃない、っていつも焦っているじぶんが思う。

年始から、自分ではどうしようもない悲しいことやしんどいことの連続だった。悲観に浸ることすら忘れてしまいそうになるほど余裕がなかった。

だけど、なによりも愛しいものの死はわたしを生かそうとぐうっと背中を押してくれた。どう考えても、生きていたいとつよくつよく願えた。

けれど悲しいことには知らんぷりして蓋をした。それが生きるためだから。
7年前の彼氏の浮気をこの間ふと思い出してしまったように、きっとどこかでこの悲しみがふっと目の前を掠めてゆくのだと思うけれど、そんなこと今は考えなくて良いのだ。

4月、5月と季節が徐々に移ろいでゆくなかで、
だんだんと元気を取り戻せてゆけていることが本当に嬉しかった。元気になってまたすこしずつ、絵を描いたり、友人と会って話したり、本を読んで面白いと思えることや、なにかについてあれやこれやと小さい頭を働かせて考えることができるようになった。こうして文章を書く気にもなった。


何度伝えても伝えきれない。半蔵門、とっても愉しい2年半をありがとう。



世の中もどんどん元気になっていっているように思う。わたしの世界も日に日に外へ拓けてくると、どうも、なんだか、切ないなと思ってしまうことがすごくある。

それは、自分の「ものさし」を持っていない人があまりにも多くいることだ。それはもう、さもしくてさもしくて仕方がないほどに、己を測る(知るための)「ものさし」がない。

冒頭でも言った通りわたしの身の回りにいる友人たちは、各々の「ものさし」を超持っている。どうにか生きていくために、他者や世界の「ものさし」と擦り合わせをしながら懸命に生きている。
それはとても強烈だ。めちゃくちゃ生きている。超人生。何かに負けないように、そして自分に負けないように戦いながら、なるべく楽しく面白くそして優しく生きている。

今までそんなこと当たり前だと思っていたけれど、もしかすると、かなり感覚が麻痺してしまっているのかもしれない。言わずもがな、それが当たり前であることが本来の在るべき姿だと思う。けれど変わりモノ扱いされることは、どれだけ"多様性"が謳われまくってもきっと続くのだろうなと思う。




多様性。わたしはこの言葉が大嫌いだ。
この言葉の意味を真に案じず、無闇矢鱈に使うことは危険な風潮を呼び寄せる。乱暴に秩序を乱すのにうってつけの都合の良い言葉。

自由だったり多様性みたいなどうとでも捉えることの可能な言葉は本当に慎重に扱うべき言葉だと思っていて、そうでなければ保たれていた秩序をぶっ壊すことになってしまう。
もちろんぶっ壊すべき秩序もある。
そこから解放されるべき秩序もある。
嫌というほど、それはたくさんある。

けれど、目先の快楽や言い訳のために都合よく使われていること。その言葉の意味やそれがもたらす現象についても深く考えず、なんとなく、フーンそういう感じなんだ〜という認識だけが先行し、あらゆることの発言がなんとなくしづらくなって、だんだんだんだん、窮屈になっていく。

本当に考えすぎだと言われるかもしれない。
でも考えているからこそ、きっとすこしだけ世界を変えられるかもしれないと本気で思ってる。



本当の意味での多様性を重んじるのであれば、
それらを認め合う世の中にするためには、まずはみんなひとりひとりのオリジナルの「ものさし」が必要だ。

だけど、どうだろう。
それって本当に難しいことで、なかなか容易に形成できるものじゃない。誰かの作品を見る。誰かの考えを読む。誰かの意見を聞く。誰かから何かを学ぶ。そうして何かを享受をした時に、そこからなにを思う?なにを感じる?どう行動する?なにを拾ってなにを捨てる?

それらをいちいち取捨選択し、決定するために必要なものがわたしの言うじぶんの「ものさし」だ。

他者と相対し、その物差しを差し出し見比べあったり話し合ったりして理解を深めることで、世界は広がる。さすれば「ものさし」は自ずとさらに良質なものになってゆくのではないか。

「ものさし」は、価値観や審美眼、これまで知識や経験をもとにしたものの考え方、意識や無意識まで、つまり”自分”という世界を形成しているあらゆることにおいての基準を示すものだと考える。これらは誰かのものと見比べることがあったとしても、そこに優劣はまるで存在しない。

大切なことは、それがいかに柔軟且つ強靭であるかということ。誰かを傷つけるものにするのではなく、誰かとわかりあうために必要で、それは自分をより深い解像度の世界へと導くためのものにすることだ。そしてそれを、自分ではない他人に差し出す勇気。だけど、そんなに怖いものでもないよ。
それをしたところで死ぬわけじゃないんだから。

インスタで誰かの成功だけを眺めていることで、自分の「ものさし」を本当に作ることができるのだろうか。他人の「ものさし」に惑わされたり、それによって自分を苦しめることは楽しいことなのだろうか。

多様性を認め合う世界、というものを考えた時にわたしはこのように考えた。ただの、もしかすると昨日駅ですれ違ったかもしれない通りすがりのわたしはこのように考えた。

でもこれをあなたが読んだとして、
自分だったら?自分の「ものさし」は?
どんな色でどんなかたち?って、何かのきっかけになったらわたしはとてもこの文章を書いた甲斐があるし、すごく嬉しい。そしておもしろい。

だってすべては自分のためなのだ。
豊かな世界で生きていきたいと、窒息しながら願っている。豊かになるとは経済的なことでも、他者からの評価を得ることでも、容姿が美しいことでもない。本当に豊かであるということは、カルチベートできる世の中をひとりひとりが作ることだ。

どんな問題も、わたしは一貫して豊かであるべきことを前提として取り組む。それはだって人間として生まれてこられたのだから。
言語でコニュニケーションをとれる同士がこの世に70億人いると思ったら、とってもとっても面白いじゃんと感じる。きっと大丈夫。わたしですらこんなこと考えたり書いたりできるんだから、あなたにできないわけないよって、わたしは心の底からそう思う。
なにも変わらない、おんなじ人間だから。


なんの根拠もなく、人間がとてつもなく脆く、けれどとてつもなく逞しいことも知っているから。よい会話がどれだけ自分を救ってくれるか、わたしは知っているから。



日々に忙殺されていたとしても、
本当はそれは関係ない。
わたしはどれだけ忙しくたって、脳内はアテネ。
いつだって思想と思考と哲学を繰り返す。
だってその方が世界はおもしろく見えてくるでしょう。どうせあと70年くらい生きるのなら、おもしろいほうがいいな。


もっともっとだいじなことを見つめながら、
あなたと一緒に生きていきたい。
恐れないで。がめつくおもしろく生きよう、ぜ。



2023/05/04 nomura elico


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