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auto modeで運ばれる思考*そこで何を見ているのか*


思考はコントロールできるどころか抵抗もできない。
当然だ。
思考の大半は無意識的なものなのだから。

思考の中には重要なものもたくさんあるが、たわいのないものもたくさんある。
人間の頭には、そうした思考が日々浮かんでは消える。
自分には価値がないとか、まわりから浮いているとか、才能がないとかいった思い。
そうした思考が通勤途中に、料金の支払い中に、買い物の道すがら、あるいはドライブ中に浮かぶのは普通のことだ。

『あなたは あなたが使っている言葉でできている』
ゲイリー・ジョン・ビショップ


noteに書いたものを公開して、3か月になる。
アカウントを作ったのはそれよりも前。
最初は他の方々のnoteを読んで、憧れているだけだった。
最初から何か書こうと思っていたわけではないのです。

公開されている記事が皆さんとても素敵で、その人の世界に引き込まれるものばかりで。文章も絵も写真も心が動かされまくった。
気が付いたら、noteばかり眺めるようになっていて。
眺めているだけで充分楽しかった。

その頃から、私のLINEの文章はやたらと長文になっていく。
「感想を聞かせてください。」と言われて書いていたら、長い感想になった。
「また、感想を聞かせてください。」と言われるものだから、調子に乗って毎週長文LINEを送るようになっていき、とうとう表示しきれなくなって【 すべてを見る > 】を押さないと全文が見られないようになっていた。
ちょっとした嫌がらせ。笑

送っていたのは企業用LINEなので、その会社の社員の方達、誰でも見る事が出来る。
「楽しませてもらってます。」笑
と言われて
「伝えたい気持ちが止められないのです。」と答えて始めて気が付いた。
そうか、私は書いて何かを伝えたくなっていたのかと。

色んな想いが詰め込まれているnoteの世界に自分も仲間入りしたくなり飛び込んだ。



私は1週間に1回程度の更新しかしてないので、たいして記事を公開出来たわけではない。

それでも、noteの更新を止めてしまおうかと悩みながら毎回書いている。
自分を出す事に抵抗がありすぎるのだろうか?
顔も名前も出していないのに。

こんな事を書いて、誰が読むのだろうか?とか、どう思われてしまうだろうかとか、公開したものへの後悔とか。←あれ?ダジャレみたいになってる?
(そんなにPVも無いからたいして見られてないのに。)
自意識過剰なのか?
そういったものがいまだに吹っ切れずにいる。

それでもこうやって書こうとキーボードを今、叩いているのは「コンフォートゾーンから出たい!」と思う気持ちがあって、“全然進んでも無いのに、その歩みを止めてしまっても良いのか?”という思いから。

今いる所にまた座り込み、後ろを向き、何の可能性も信じない。
先の見えない状況に足を踏み出し、ゆっくりだけど歩んでみたが、やっぱり自分にはムリだと諦めて、新しい場所に進むのをやめてしまおう。
私に流れて来る自動思考は自分自身を信じない、卑下したものばかり。

感情を深く覗いてみようとすると、大体が雨が降っててずぶぬれ状態であることが多い。
“自分はやれないムリだという諦めの気持ち”やら“不安”やらが潜んでいる。
(なんか、病んでいるみたいで危ない人のようだが、そんな人ではない。
深く落ちなければ、穏やかで、とっつきにくい人間ではないとは思っている。)

でも、たとえずぶぬれでももうそれはそれで良いのではないかと思う。
一旦それを忘れて、踏み出す。
晴れるまで待っていようとしたら、何も踏み出せない。
自動思考に命じられるままに流されいくのでは無く、自分で決められる事なんて“やるか”“やらないか”くらいなもの。


実際私は「雨女」である。
ランニングを趣味としているが、市民大会に出る時は大体雨である。
夫からは、“妖怪アメフラシ”と言われ、子どもからは“雨女”と言われる。
ひどい言われよう。涙

そう言いながらも、夫と子どもはテントを張ってゴール付近で待っていて、写真や映像を撮って手を振ってくれる。
ゴールで家族が待っていてくれるのは、かなり嬉しい。

ずぶぬれになりながら走る。

note も。
公開したら読んでくれる人がいると信じて、この記事が最後かもしれないと思い、毎回書く。

もう、良いのだ。
晴れるまで行動を待たない事にした。


行動が幸福につながるとは限らないが、
行動せずに幸福が得られることは決してない。

ベンジャミン・ディズレーリ

ー*-*-



昨年2月のこと。画期的な企画と思える展覧会に行った。

インポッシブル・アーキテクチャー IMPOSSIBLE ARCHITECTURE
-もうひとつの建築史ー
2019年2月2日~2019年3月24日 埼玉県立近代美術館
である。


完成に至らなかった素晴らしい構想や、あえて提案に留めた刺激的なアイディア。未来に向けて夢想したした建築や技術的には可能であったにもかかわらず社会的な条件や制約によって実施できなかった建築。いわゆるアンビルト/未完の建築に焦点をあて、「インポッシブル・アーキテクチャー」不可能な設計思想と称して開かれたもの。
ここでの「インポッシブル」は無理難題である「不可能」を意味していない。
不可能に眼を向ければ、同時に可能性の境界を問うことにも繋がるという。

その最後に、映像作家のピエール=ジャン・ジルーによる、CG映像《見えない都市#パート1#メタボリズム》があった。

現在の東京に、アンビルトの建築を3DCGで入れた動画で、桜の花びらが舞う中、電車の車窓から現実の東京の建物の中にアンビルトの建築物が次々と現れる美しい映像である。

私にとっては、noteのクリエイターの方々の作品を眺めながら、自分になら出来そうに思える境界が見えて来るのである。
あんな物は建てられないけど、自分ならこんなものは建ちそう。
そんな風に、自分の中に探しに行くのである。

今までやってない事をしているので、色んな事に敏感に反応し、ありとあらゆるところから汗を流している。

インポッシブル・アーキテクチャー展についてはかなり印象に残っていて、面白かったので又、記事で触れたいと思っている。

ー*-*-

前に企業用LINEで書いていた感想を冊子に使いたいと言われた。
「えっ!?ホント?」ってなった。嬉しかった。

本当に使ってくれるだろうか?まだ分からない。

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