見出し画像

コハルの食堂日記(第16回)~平成最後の桜①~

 二〇一九年、平成三十一年。
 東京では、三月二十一日の「春分の日」に、ちょうど桜の開花宣言が出され、三月二十七日頃に満開となった。例年よりも早めの開花を迎えた「平成最後の桜」。それもすぐに散っていき、もうすぐ「さよなら、平成」となってしまうのだ。

 勲にとってもサラリーマン生活最後のときであった。前年十一月に還暦、つまりは六十歳を迎えた勲。この三月末で「定年退職」ということになっていた。一時は再任を希望することも考えた勲だったが、潔くもというか、ここでサラリーマンという立場より退くことを決めたのだった。それは勲には、ちゃんとした「今後の人生計画」があった、からこそ、だ。

 四月一日、月曜日。
 定年後、最初の平日を迎えたところで、勲の「老後の人生」一日目である。でも、勲に言わせれば。
――いや、「老後」と言わないでくれ。まだ老いぼれてなんかいないぞ。人生はむしろこれから。これからは春子の店の手伝いとして新しいスタートだ。まぁ、最初は足手まといかもしれないがな……。

 春子も六十五歳を迎え、さすがに「老い」と、それによる身体の衰えを少しばかりずつ感じ始めていた。それにもかかわらず、店の人気は右肩上がり。かえって繁盛してきている。もちろんそれは、むしろ歓迎すべきことではあるのだが。
 つまりは春子ひとりで切り盛りすることが難しくなりつつあったそんなところへ、まさにちょうどよいタイミングで勲が「新入り」の店員として、店を手伝ってくれることになったのだ。
 これからは、夫婦二人三脚で「味処コハル」をやっていくことになる。

 「新入り」にとっての店員生活初日の四月一日。その日の開店時刻、午前十一時半を迎える。ちょうどテレビでの新元号の発表、その記者会見が始まるというタイミングだ。
――新しい元号は『令和』であります……。
 『令和』と書かれた色紙が、菅義偉官房長官によって掲げられた。その映像が「味処コハル」のテレビにも映し出される。

 まだお客さんを迎えていない「味処コハル」。テレビを見上げながら、春子がつぶやくように言う。
「私ね、政治家ってみんな信頼ならないものだって考えてるけど、菅さんだけは別なの」
「ああ、やっぱり菅さんは春子と同じ秋田出身だからか?」
「それもあるけど……。菅さんってね、平民出身だから。若い頃、ひとりで東京に出てきて、ダンボール工場で働きながら学費を稼いで、そして大学に行ったのよね。その時点で親の七光りを受けてるのなんかよりずっとエラい」
「あはは、そうだよなぁ。俺も菅さんのね、そこんとこ好きだけどな」
「いずれは首相だろうね。その果てには、この国も少し変わるかもしれない、わね……」

 勲にとっての「新入店員」として初日の今日も「味処コハル」はまたてんてこ舞いな一日だった。午後十一時を回り、お客さんがいない状態になったところで春子は声をあげる。
「そろそろお開きにしましょうか」
賄いは付くかね」
 勲は右手でお猪口を作り、口元に持っていく真似をしつつ言った。すかさず春子。
付きません! もう夜遅いでしょう。明日もおしごとですからね」
「ふぅ、これ、会社員生活よりキツいかもしれぬのぅ……」
「私はこれを週一日の休みで始めてもう三十三年になるのよ」
 春子は店員としてはもちろん、勲の大先輩にあたるのだ。

「しかし、桜見るなら今のうちかしらねぇ。もう既に散り始めているっていう話だけど……」
「毎日、店がこんなに忙しいと花見の暇もねぇよなぁ」
「うーん、でもお店がお休みの水曜日にならちょっとくらい外出してもいいかもしれない」
 思えば、夫婦生活が始まってからも三十年余り。春子の店が平日休業であることもあり、ふたりで旅行はおろか、外出らしきことをすることさえも稀だった米倉夫婦だった。春子が提案する。
「ねぇ、あなた。あさって水曜日にでもふたりで一緒にお花見に行きましょうか」
「おお、それはいいねぇ。まぁ、思えば、春子とデートするのも久しぶりだな」
「そうね。私もそう思っていた」
「で、夜は新人歓迎の呑み会なんてどうだ?」
「ええ、まぁ……。そう、期待の新人さんだからね。歓迎してあげないと! そういうわけで、じゃあ、あさってをお楽しみに、明日も一日がんばりましょう!」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?