MMTの論理構造をテクスト分析によって明らかにしてみる
「新しいMMT入門」の第14回。
兼
資本論-MMT-ヘーゲルを三位一体で語るの第48回ということで。
流れに任せて書きなぐっていたら、前回はキリスト教神学の話になっていました。
そういえばマイケル・ハドソンがどうして聖書研究を一生懸命やっているのかが最初ピンとこなかったのですが、今はよくわかります。
初回に書いたことですが、もともとは「日本でMMTを考えるにあたってはアメリカを無視できない、だから1950年代にFRBが財務省からの独立を手にしたアコードあたりから理解するのがいい?」という着想で始めてみたわけでした。
なのにだんだん19世紀の熱力学の話が入り、前回は16世紀の神学にすっ飛んでいる。
そんな状況をぼくは楽しんでいるわけですが、面白いことに気づきました。
「ド文系」的アプローチ
第五回に本格的に始めた熱力学のアナロジーは、いわゆる「理系」のアプローチですよね。
「衝撃のリーブ論文(1999年)」と言ったところで「文系」の人にはちんぷんかんぷんかもしれない。
さらに「熱力学」は理系の分野でもある種特殊な世界と言われています。
前回(第13回)の「神学」の話は一転して「ド文系」アプローチだったことになります。
きっかけは、エンゲルスの断章んので熱力学ぽい話を探していた時(そしてそれは実際に存在していた)に、宗教改革の話が出ていたことでした。
この残酷な方法で火あぶりにされたセルヴェトゥスに関心を魅かれてしまったのです。
ここで、自宅にいながら川村文重さんの最近の諸論文が読めるのは素晴らしいことでした。
川村の2019年の論文「キリストの身体と神秘なるエネルギー : 聖餐論争期に現れた〈エネルギー派〉の同定を通して」においては、まだセルヴェ(セルヴェトゥスのフランス語表記)は登場しておらず、2021年以降、突然セルヴェに関する非常に興味深い論文を連発するようになるのです。
現在進行形の研究であり、総括的な評価はできませんが、「ミシェル・セルヴェの〈自然についての神学〉 : ヴォルテール『習俗試論』の一節を読む」に心底唸らせました。
川村はここで、ヴォルテール(1694 - 1778)による『習俗試論』という文章の、第 134 章「セルヴェについてとカルヴァン について」における、セルヴェ(1511-1553)の思想を紹介するある一節の、徹底クリティークを行います。
そこで
ヴォルテールが参考にしたセルヴェの文章の原文はどれなのか。
ラテン語のどの単語をどのようなフランス語の単語に移し替えているか。
カンマの位置は?
などなど。。。
この分析を加えることで、一見何の問題感じられないヴォルテールの紹介が、セルヴェの意図したものと違う構造になっていることを明らかにするのです。
そして川村のその後の一連の研究をも加味すれば(しなくても十分ですが)、エンゲルスによる「セルヴェトゥスは血液循環の過程を発見しかかったから、迫害された」という理解はかなり通俗的な「変な」理解だぞ、ということがわかってしまうのです。
ただし、ここからも重要なのですが、現代のわれわれは「本来のセルヴェ」を見出したからと言って、「エンゲルスはズレている!」と、後世の彼らの主張をたんに却下してよいとはなりません。
論文の「むすび」で川村は、次のような論理でヴォルテールを擁護するのです。
同じようにエンゲルスの文脈も、思想が科学的発展を阻むことがあるという主張であると読み取れば、ミスリーディングではあっても、間違いではないし主張は通っているのです。
ぼくが何を言いたいわかってもらえたらうれしいです。
「日本のMMT」は「財政支出は減らさないと大変なことになる」という思想上の敵に対するアンチとして採り上げられている。
MMTという新しい武器を、かなり強引に(というか名前だけ借りて)主張する論者もいれば、穏当な論者も存在する。マクスウエル分布を考慮すればこれも当然のことでしょう(笑
テクスト分析アプローチの威力
ぼくが文系人間であることはもうバレていますよね。
ふだんの自分は「理系人間」の前では意識的にそう見えるように振る舞います(逆のこともします)。
今回ぼくは川村の仕事に触れて、これまで自分は無意識的にMMTのさまざまなテクストの構造分析をやっていて、それを批判に結び付けていたんだなと思えるようになりました。
これはもっと意識的にやった方がいいかもしれない。
川村はこの方法によって、たとえば16世紀の聖餐論争における「カトリック派」、「カルヴァン派」、ルター、セルヴェといったそれぞれの思想の微妙な、しかし決定的な違いを鮮やかに示します。
その要領で、これまで見てきた多くの「MMT的エクリチュール」を思い出してみると「ある構造」が明らかになることがわかります。
もっと早く気づけばよかった!
MMTをセルヴェだとして、ヴォルテールの役割を果たす素材には、次のものをとりあげましょう。
「MMTと安全保障」(諸星たお著)の分析
それは「MMTを知ってほしい会」の動画の最後の方、1:37:00 あたりで松田さんが紹介してくださったテクストです。
松田さんが言われるには、「金ぴか本」は分厚すぎで「望月本」は整理にはいいのだけど、章と章のつながりがわかりにくかった。そこで諸星さんのこの5ページのまとめを読むことが「一気通貫でMMT理解するのによかった」とのこと。
やってみましょう。
太字で印字されている小見出しによって18の節に分かれています。
各節の見出しを次のように処理します。
それぞれに1~18の番号を付け、そのうち理論を扱っていると見做せる節を太字で表し、そのうちさらに日本独特の論に寄った節の見出しに(J)、オリジナルに近いと見做せる場合には(O)の記号を入れてみたのが下です。
少し詳しい方は「16は(O)でないの?」と思われるかもしれませんが、内容面で、ぼくはここを(J)と見なします。
まず、MMTにとって柱の一つであるジョブギャランティ(O)の不在が確認できます。
それ以外の特徴を見ていきましょう。
「信用貨幣論」が前景化するのが日本MMTの特徴
理論の説明の最初に「信用貨幣論」「信用創造論」が来ています。
実はこのことはこの「MMTと安全保障」に限定されない、日本MMTに広範にみられる現象です。念のため、いまパパっと見た手持ちの二冊、望月本と島倉本を確認したところ、そんな感じです。
中野の「奇跡の経済教室(入門編)」のように、インフレ・デフレ論(J)が先に来るものもありますが、これはMMTの本というわけではありませんし、第五章「お金について正しく理解する」は「信用貨幣論」全開です。
では内容はどうでしょうか。
16世紀「聖餐論争」と現代の「貨幣論」の論理的な対応関係
実はその論理を16世紀の聖餐論争の各派に当てはめると「信用貨幣論」は、宗教改革の先行者ツイングリ(1484-1531)の「象徴説」「聖餐形式論」と呼ばれるもの見事に似ていることがわかるのです。
そのあたりを表にしてみました。
おおわかりやすい\(^o^)/
カトリックとプロテスタントには、どちらにも聖餐式という儀式がありまます。そこで用いられるパンとぶどう酒は、カトリックの場合キリストそのものへ実体変化するものです。
対してプロテスタントの場合、神の言葉と信仰によってパンとぶどう酒にキリストが現前します。
「商品貨幣論」vs「信用貨幣論」、そして第三の立場
同じ論理を、いわゆる「商品貨幣論」と「信用貨幣論」に当てはめることができます。
つまり、貨幣には当然実体的な価値があると考える「商品貨幣論」が前者のカトリックの立場に見立てられるとすれば、もう一方、貨幣それ自体に価値はなく「信用」によって価値を得ると考える「信用貨幣論」は後者のプロテスタントの立場に相当する。
この類似は明らかではないでしょうか。
では「第三の異端の立場」とはどのようなものか?
MMTを16世紀キリスト教の聖餐論争になぞらえるならば、それは異端者セルヴェの「儀式があってもなくてもキリストはすべての物体に遍在している」という立場となるでしょう。
この立場からすれば、聖餐式で信仰を確認することによって得体のしれないエネルギーのようなものが「現前」するというカルヴァンって「いったい何を考えているのか?」ということになるわけです。
神の力はそんな小さなものではない!、みたいな。
これは「MMTの立場からの信用貨幣論」の見え方に相当します。
これを「MMTと安全保障」で提示されている言葉と図を見てみましょう。
まず、図を検討します。
これは、聖餐式(取引中)における父と子と聖霊の三位一体関係を思わせます。
MMTはもっと世界を広く見ます。
できればこの描像が、第八回、第九回で描いた描像と一致していることを確認してほしいと思います。
では、この異端のビューにとって「信用貨幣論」がどのように見えるかというと。。。
こうなんですね。
セルヴェの悲劇
セルヴェにとって、神のエネルギーは万物、万人に遍在するように、MMTから見て税の圧力は全主体にいきわたっていて、それが取引を動かしている。
セルヴェにとって「万物に神の力がいきわたっている」ということがどれだけ大事なことかを想像すれば、「全主体に税の圧力がいきわたっている」ということがMMTにとってどれだけ大事かが理解できるのではないかと思います。
異端が言いたいのは「○○論は間違い」なのではなく、「それはてんで視野が狭くないですか?」ということなのです。
せっかくそこで、「パンと葡萄酒」という神の力を見ているのに、どうしてそれが「聖餐式の場に始まるということ」にしなければいけないのか。
それは転倒なんです。
ぼくが心底唸った上記の論文で、川村はセルヴェの集大成の書となった「キリスト教復位」に次の脚注を入れています。
その内容は、カトリックやカルヴァン派に共通した中核教義である三位一体論を全面的に否定したものであったゆえに、異端判決を受けることになりました。
セルヴェの血液循環説はともに葬られ、それは17世紀のハーベイによる再発見を待つことになる(なお、それがケネーという経済学の始祖の思考につながる)のですが、それは異端判決とはほぼ関係がなかったのです。
それを地動説によって異端とされたジョルダーノ・ブルーノの火あぶりと同列には語ることはできない。
ぼくは次のように思います。
セルヴェにしてみれば、すっかり堕落したカトリックの連中とは違って、実体とは別の「神に由来する力」を「実体それ自体とは異なるもの」として正しく把握できていたカルヴァンには、万物に遍在する神の力がわかるはずと信じていたのではないでしょうか。
もしそうでなければ、彼がしつこくカルヴァンに書簡を送ったり、ジュネーブに平気で乗り込んだ行為を説明することができない。
「現代の貨幣」という語が意味するところ
では次に「MMTと安全保障」のテクストの方を見てみましょう。
MMTが「modern money」と呼んでいるものは、このような意味でおいてではないんです。
この点は翻訳が最悪の「金ぴか本」でもきちんと読めば読み取れるはずなのですが。
これをぼくの分類に当てはめると差異の構造が明らかになるでしょう。
「MMTと安全保障」を聖餐論争の構造にあてはめると、ここで記述されているのは異端(セルヴェ、MMT)の論理ではなく、まさにツイングリ派によるカトリック批判の論理になっているのですね。
さて。
ど文系的分析をもっと続けてもいいのですが、とりあえず十分と思うのでそれは別の機会に回しましょう(ニーズがあれば)。
ぼくはここで別に語りたいことがあります。
マルクスです。
すっかりよみがえるマルクスの論理
いまお見せしたように、すべての人は自身が属している信念体系によって、ある「同一のはずのテクスト(ディスクール)」から「かなり(あるいはまったく)違った内容」を読み取り、語るのです。
ヴォルテールのセルヴェ読解はそれであり、ほとんどすべてのMMT読解にもいっそう当てはまるものです。
こうした「非和解」な論理の共存は、前世紀にポスト・モダンと言われる文系の学者たちが盛んに論じたものです。
しかし、もっとさかのぼればマルクスにたどり着くのです。
だからこそ彼は偉大な哲学者なのですが、彼の「貨幣論」はどうですか?
「マルクスは労働価値説を採った」
「マルクスは金属貨幣論を採っている」
そんなふうに考えて疑わない人は、自分の信仰を疑うことができないだけなんです。
人生損してます。
資本論の第三章に有名な「商品の命がけの飛躍」という表現があるのですが、ここで彼はラテン語の salto mortale を当てているわけです。聖餐論争でいえば、その取引の現場、商品が最初に貨幣に変態する場面こそは、資本主義社会の「聖餐式」に相当するものでしょう。
セルヴェを知ってからぼくは彼をロールモデルにして生きたいと思うようになりました。
彼が偉大なのは、マルクスと同じように「聖なる行為」、モズラー風にいえば「glorify された行為」ではない方の、無数の「聖ならざる日常の行為たち」に世界の基盤を見て取ったところにある。
ところで川村は別のところでこう語っているのです。
うん。
この時代に人文科学と自然科学をそれぞれ学ぶことができた珍しい犬として、ぼくも細々とそれをやりたい。
ということで今後もよろしくお願いいたします。
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