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エンゲルスに学ぶ「異端の学」とMMT

今回は「新しいMMT入門」の第13回、
 兼
資本論-MMT-ヘーゲルを三位一体で語るの第47回ということで。

 ぼくが熱力学とMMTおよびマルクスの類似を真剣に考えるようになったのはごく最近のこと。

 そのあとで、熱力学の巨星であったクラペイロン(1799-1864)やクラウジウス(1822-1888)やマクスウエル(1831-1879)らは、マルクス(1818-1883)と同時代の人であることに気づく。


エンゲルスで考えるMMTと熱力学

エンゲルスの熱力学論

 蒸気機関が発展した時代。

 当然マルクスの思想も同じ潮流にあるのだから、熱力学についてマルクスが何か書いていなかったか、直接的な記述はまだ見つかっていない(だたし資本論の方法には、彼ら物理学者と共通したアプローチが随所に感じられる)。

 そして前回書いた、エンゲルスの「『[反]デューリング論』への旧序文」の中に熱力学への興味深い言及を見つけたのでした。

 もう少し調べると「帰納法と分析(Induktion und Analyse)」という短い断章でこれに触れているのがわかり、MMT(モズラー)と重なるものがあってとても驚いたのでご紹介しましょう。

 ぼくがどうしてMMTを踏まえて「経済学は間違い」と言っているかをエンゲルスが語ってくれているように思われるのです。

 Ein schlagendes Exempel, wie wenig die Induktion den Anspruch hat, einzige oder doch vorherrschende Form der wissenschaftlichen Entdeckung zu sein, bei der Thermodynamik: Die Dampfmaschine gab den schlagendsten Beweis, daß man Wärme einsetzen und mechanische Bewegungen erzielen kann. 100.000 Dampfmaschinen bewiesen das nicht mehr als Eine, drängten nur mehr und mehr die Physiker zur Notwendigkeit, dies zu erklären.
 帰納法が、科学的発見の唯一のあるいは支配的な方法である主張することにいかに問題があるかを示す顕著な例は熱力学である:蒸気機関は、熱を機械的運動を実現するために利用できることを何よりも顕著に実証していた。100,000台の蒸気機関がこのことを最初の1台より多く証明したのではない。単に物理学者たちがこのことを説明する必要性にますます迫られるようになったということだ。

 Sadi Carnot war der erste, der sich ernstlich dranmachte. Aber nicht per Induktion. Er studierte die Dampfmaschine, analysierte sie, fand, daß bei ihr der Prozeß, auf den es ankam, nicht rein erscheint, von allerhand Nebenprozessen verdeckt wird, beseitigte diese für den wesentlichen Prozeß gleichgültigen Nebenumstände und konstruierte eine ideale Dampfmaschine (oder Gasmaschine), die zwar ebensowenig herstellbar ist wie z.B. eine geometrische Linie oder Fläche, aber in ihrer Weise denselben Dienst tut wie diese mathematischen Abstraktionen: Sie stellt den Prozeß rein, unabhängig, unverfälscht dar.
 サディ・カルノーが初めて真剣に取り組んだのである。これは帰納法ではない。彼は蒸気機関を研究し、それを分析し、その中で重要なプロセスは純粋な形では見えず、あらゆる種類の二次的なプロセスによって不明瞭になっていることを発見し、本質的なプロセスには無関係なそれら二次的な状況を排除することによって、理想的な蒸気機関(またはガス機関)を構築した: それは、純粋な、独立した、混じり気のないプロセスを表すのである。

 Und er stieß mit der Nase auf das mechanische Äquivalent der Wärme (siehe die Bedeutung seiner Funktion C), das er nur nicht entdecken und sehn konnte, weil er an den Wärmestoff glaubte. Hier auch der Beweis vom Schaden falscher Theorien.
 そして熱の機械的な等価物は、彼の目と鼻の先にあった。しかし彼は熱素を信じていたので、それを発見することも見ることもできなかった(彼の「函数C」の意味を考えよ)。

原文はここ→http://www.mlwerke.de/me/me20/me20_481.htm

 なお「函数C」の意味については前回のエントリを参照。

モズラーとカルノーがどれだけ似ているか

 上の二番目の段落の「サディ・カルノー」を「ワレン・モズラー」に、「蒸気機関」のところを「貨幣システム」に置き換えます。

 ワレン・モズラーが初めて真剣に取り組んだのである。これは帰納法ではない。彼は「貨幣システム」を研究し、それを分析し、その中で重要なプロセスは純粋な形では見えず、あらゆる種類の二次的なプロセスによって不明瞭になっていることを発見し、本質的なプロセスには無関係なそれら二次的な状況を排除することによって、理想的な「貨幣システム」を構築した: それは、純粋な、独立した、混じり気のないプロセスを表すのである。

 どうですか?

 1994年、モズラーが Soft Currency Economics でやったことはカルノーがしたことと同じです。

 カルノーの時代にすでに無数の「蒸気機関」が稼働していたのと同じように、歴史上無数の国々が「貨幣システム」を現実に動かしてきました。

 モズラーは純粋な、独立した、混じり気のないプロセスを表す、理想的な「貨幣システム」を記述してみせたのです。

 なおこの「理想的(イデアル)」とは、物理や科学で「理想気体(イデアル・ガス)」というときの「理想的」で、今の言葉でいえば現実を解釈するときの「基本モデル」と言ってよいでしょう。

 カルノーのメカニズムがすべての熱機関に当てはまるように、モズラーのメカニズムは歴史上のすべての貨幣システムに当てはまるものです。

異端の神学史とMMT

 というわけで、ぼくはいまエンゲルスの自然科学論を精力的に読んでいるのですが、実に面白い。

 自然研究もまた、当時は全般的革命のまっただなかで動いており、そしてそれ自身が徹頭徹尾革命的であった。つまり、自然研究もやはり生存権をたたかいとらなければならなかったのである。近世哲学を創設した偉大なイタリア人とともに、自然研究は、その殉教者を火刑場へ、異端審問の牢獄へおくったのである。そして特徴的なことには、自由な自然研究にたいする迫害においては、プロテスタントがカトリックよりも性急であった。カルヴァンは、セルヴェトゥスが血液循環の過程を発見しかかったときに、彼を火あぶりにし、しかも二時間も生きながら焼かせたのである。〔カトリックの〕異端審問は、せいぜいジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにするだけで満足したのである。
 自然研究が自己の独立を宣言し、いわばルターの破門状焼却を繰り返したところの革命的行為は、不滅の著作の出版であった。すなわちコペルニクスが、この著作によって、ためらいながらではあるが、そしていわば臨終のベッドではじめて、自然の事象における教会の権威に挑戦したのである。たとえ、個々のあい対立する主張の整理が現代までもちこされ、多くの人びとの頭のなかで依然として長いあいだ完成されないできたとしても、自然研究の神学からの解放は、このときからはじまる。ともかく、このときから科学の発展も巨大な歩みで進み、力をくわえていった。それは、出発点からの(時間的)へだたりの二乗に比例しているということができよう。それは、あたかも、そのとき以後は、有機的物質の最高の所産である人間精神にたいしては、無機的素材にたいするのとは逆の運動法則があてはまることが、世界に証明されるはずであるかのようにみえた。
 自然科学のいま開かれた最初の時期における主要な仕事は、手ぢかにある素材を克服することであった。

エンゲルス 自然弁証法(抄)渡辺寛訳 河出書房


 最後の一行はモズラーの仕事に当てはまると思います。

 それはさておきぼくの興味をひいたのが、カルヴァンによって残酷に処刑されたというセルヴェトゥス(1511-1553)という人でした。

「エネルギー派」?セルヴェトゥスはどのような異端か

 調べると、どうやらセルヴェトゥスの処刑にカルヴァンがどれだけ関与したかは所説あるようです。

 ぼくはこの人物を調査する過程で、かなりの親近感を覚えるとともに、彼の神学に対する立ち位置が、MMTの(モズラーの)経済学に対するそれととても似ていることを見出しました。

 「エホバの証人」のサイトに彼の詳しい紹介が書かれていることからわかるように、カトリックでもプロテストでもない「三位一体説に同調しない」系の異端の人物です。

 ここで川村文重さんの、
「神学的エネルギーから医学的エネルギーへ (1) : ミシェル・セルヴェ『三位一体の誤謬について』(1531年) におけるエネルギー概念」
 という研究をご紹介。

 先に発表した拙稿の主題は,対抗宗教改革のさなかにカトリックがカルヴァンの聖餐論に対して名づけた〈エネルギー派〉という呼称をめぐってであった。カトリック側は,カルヴァンの採る臨在説がキリストの身体そのものを欠き,実体のないエネルギーしか問題にしていないと非難していた。それに対して,カルヴァンはカトリックの主張するような〈実体変化〉の実体とは別のあり方で,キリストの身体性をいかに重視しているか強調し,〈エネルギー派〉と呼ばれる筋合いはないと反論した。現に,カルヴァンは『キリスト教綱要』(最終版)の聖餐論が展開される箇所で,キリストの身体と信者を「聖霊の神秘なる力 vertu」で結びつけてはいるが,〈エネルギー énergie〉の語を一度も用いていない。このような〈エネルギー派〉という揶揄のニュアンスを込めた呼称をめぐる応酬から,このエネルギーの語には実体のない,わけの分からないものといったネガティヴな意味合いが込められていたことが窺える。

 ところが,カルヴァンと同時代を生き,カトリックからも,カルヴァンが支配するジュネーヴからも異端の判決を受け,生きながら火刑に処せられたミシェル・セルヴェ(1511-1553年)の神学では,〈エネルギーenergia〉がキータームのひとつであった。フランスで聖書の考証学研究を行っていたスペイン出身のセルヴェがその該博な学識を発揮して著した『キリスト教復位』(1553年)は,三位一体論を否定したがゆえに異端判決の根拠となったが,そこでは神によって被造物に生命が賦与される際にエネルギーが作用していることが示されている。この神学的な発生論は,セルヴェ自身が発見したとされる,心臓と肺の間の血液肺循環という医学的知見に基づくものである。このような医学と神学の密接な連関が彼の神学思想の特質のひとつを構成している。

川村「神学的エネルギーから医学的エネルギーへ (1) : ミシェル・セルヴェ『三位一体の誤謬について』(1531年) におけるエネルギー概念」冒頭部

 面白ですよね。

 「エネルギーの語には実体のない,わけの分からないものといったネガティヴな意味合いが込められていた!」

わけのわからない概念としてのエネルギー

 現代の日本で「エネルギーってわけがわからない」という人はほとんどいないでしょう。

  同じ熱力学用語でも「エントロピー」はどうでしょう。

 エントロピーは、19世紀にクラウジウスが命名したものですが、まだ「わけがわからない」という人は多いのではないでしょうか。
 
 新しい概念というのはそうしたものです。

MMTと「エネルギー派」の類似について

 上の引用に、聖餐論という言葉が出てきます。

 これについては川村の一つ前の論文である
「キリストの身体と神秘なるエネルギー : 聖餐論争期に現れた <エネルギー派> の同定を通して」
に詳しいのですが、ぼくが言いたいのは次のようなことです。

 キリスト教における、カトリックとプロテスタント(カルヴァン派)そして「エネルギー派」という三派の関係は、経済学における「主流派-○○派-MMT」の関係に見事に対応している!

 説明いたしましょう。

聖餐にまつわる論争と「神秘のエネルギー」

 聖餐とは、カトリックとプロテスタントに共通する「パンと葡萄酒の儀式」を指します。イエスの最後の晩餐にちなんだ儀式ですね。

 1520年ごろに聖餐論争と言うのもあったそうで、カトリックとプロテスタントの間には聖餐の位置づけ、解釈に大きな違いがあった(ある)のだとか。

 雑にまとめます。

 つまり「パンと葡萄酒の実体にキリストが霊的に実在する」(カトリック)のか「象徴的(形式的)に存在する」(カルヴァン派)のか。

 ここで第三の立場が登場。

 それは、パンと葡萄酒は神の力とまったく関係ない!(エネルギー派)というもの。

 なぜなら神の力は人と直接結びついているので、媒介は大事ではないし、本来不要だというわけですね。

 めっちゃわかります。。。

「三つの立場」論

若きセルヴェトゥスの絶望

 優秀だったセルベトゥスはまだ十代だった時に,スペインの皇帝カール5世専属の聴罪司祭フアン・デ・キンターナの従者になりました。

 ところが司祭に同行するうちに,スペインに内在する宗教的分裂を見て取ることになります。ユダヤ人やイスラム教徒が国外に追放されたり,強制的にカトリック教に改宗させられたりということが起こるのです。

 セルベトゥスは16歳の時,法律を学ぶためフランスのツールーズ大学に行き,読むことは固く禁じられていた聖書を読める状況になります。聖書をラテン語の訳だけでなく、原語(ヘブライ 語とギリシャ語)で読むことができたはずです。

 このことが「三位一体は聖書に書かれていない」という主張につながるわけですね。

 また大きかったのは、僧職者たちの道徳的退廃を目の当たりにしたことて、このことがセルベトゥスのカトリック教に対する信仰は揺らがせることになります。

 エホバの証人のサイトから、重要なところを引用します。

カール5世の戴冠式において,セルベトゥスの疑念はいっそう深まります。そのスペインの王は,教皇クレメンス7世により神聖ローマ帝国の皇帝の座に就けられました。移動用の玉座に座った教皇が王を迎え,王は教皇の足に口づけしました。セルベトゥスは後にこう書いています。「わたしが自分の目で見たのは,教皇が貴族たちの肩に乗せられて仰々しく運ばれ,街路で周囲の人々にあがめられる様だった」。セルベトゥスはそうした仰々しさや贅沢さを,福音書の簡素さと結びつけることができませんでした。

'Glorified' reserve drain

 セルベトゥスは「王の本当の姿」、まさに「はだかの王様の姿」をそこに見ていた。

 Soft Currency Economics でモズラーが言っている 'Glorified' reserve drain(聖なる準備金除去)とは、ちょうど次のようなことです。

 単に準備預金と国債の数字が入れ替わるだけのことが、政府(王)が、貴族たち(経済学者)の肩に乗った中央銀行(教皇)の足に接吻することによって為されている。

 上でやったエンゲルスの言葉をもう一度、「サディ・カルノー」を「ワレン・モズラー」に、「蒸気機関」のところを「貨幣システム」に置き換えたバージョンで。

ワレン・モズラーが初めて真剣に取り組んだのである。これは帰納法ではない。彼は「貨幣システム」を研究し、それを分析し、その中で重要なプロセスは純粋な形では見えず、あらゆる種類の二次的なプロセスによって不明瞭になっていることを発見し、本質的なプロセスには無関係なそれら二次的な状況を排除することによって、理想的な「貨幣システム」を構築した: それは、純粋な、独立した、混じり気のないプロセスを表すのである。

 うん、セルベトゥスもモズラーも(そしてカルノーも)かっこいいですよね。

 どうやら、ぼくはこのタイプにあこがれるのです。

「タカ派」「ハト派」と「フクロウ派」

 ケルトンらは自分たちMMTを「財政タカ派」でも「ハト派」でもない「フクロウ派」を位置づけています。

  •  立場1:これ以上国債を発行するな!(タカ派) 

  •  立場2:国債をどんどん発行せよ!(ハト派)

 そうではない第三の立場がある。

 そもそも国債は要らないし、あれは儀式。大事なのはそこではない。

  •  立場1:パンと葡萄酒に神の実体が宿る!(カトリック)

  •  立場2:パンと葡萄酒に神が象徴的に宿る!(プロテスタント)

 そうではない第三の立場がある。

 神の恩寵はパンと葡萄酒とは全く関係がない。それは儀式。

 
 ここで次のことを考えてみてください。

  1. 「立場1」の人には「立場2」と「立場3」がそれほど変わらないものに見える。
    実際にカトリック陣営にとって「象徴派」も「エネルギー派」も異端であることに変わりはない。

  2. 「立場2」の人は「立場3」の言葉が理解できず、苛烈に攻撃することがある
    セルベトゥスに対して誰よりも怒っていたのがカトリックの人ではなく、カルヴァンだったことを深く受け止める必要がありそうですね。

 こういうことを考えたのは、リフレ派経済学者の田中秀臣や、ポストケインジアンのパリーやエプシュタインは「立場2」なんですよね。

 彼らのMMT批判がいかに的外れであるかがこのことを物語っています。

 もうどうしようもない。

おまけ:MMTの言葉が理解できない「リフレ派」

 だってこれ見てください。

https://twitter.com/hidetomitanaka/status/1660884807012986881


 ぼくがバカすぎると書いた彼のスライドはこれ。

https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/767230/9b2189b9332e7132e74613ee2447031c?frame_id=1405615

 これ、見ていくと実によくわかるのですが、カルヴァンにとっての聖書が田中にとってのワルラスなんですね。

 ええ、MMTの立場からすると貨幣を一商品とみなしたり、貨幣を特別な商品とみなすワルラス均衡なんてものはそもそもくだらない

 貨幣は実体(いわば商品貨幣説)ではないし、象徴(いわば信用貨幣説)でもない。

 第三の立場があるじゃんっていう。

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