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松尾匡さん理論を完全解剖する

今回は「新しいMMT入門」の第12回、
 兼
資本論-MMT-ヘーゲルを三位一体で語るの第46回という感覚でお送りします。

 実は松尾匡さんの『「はだかの王様」の経済学』という本をごく最近(というか今日)手に取ったのです。(Amazon

 おまえ松尾さん研究したんじゃないのか?という声が聞こえますが、ええ、まあ、ぼくはついつい論文や学術書を優先してしまい、彼が間違えていることを理解するためにはそれで十分だったので、一般向けの書籍は敬遠してしまっていたというわけ。


 思いのほか大きな収穫がありました。

 わざわざ手に取った理由は、ぼくは経済学こそが「はだかの王様」じゃんと思っているので、「はだかの王様には、はだかの王様がどう見えるのだろう?」「はだかの王様は、はだかの王様をどう表現するのだろう?」という好奇心でした。

 他ならぬ松尾さんだから、という事情も加わって。

「ある貨幣観」を徹底させて疎外を導く

 すぐに読み終わりましたが、ぼくはこれによって松尾さんがMMTを理解しない理由を心から悟り、マルクスを理解しない理由を改めて納得することができたのです。

 ポイントはここでした。

 この本は「貨幣はみんなが受け取るから受け取られるのだビュー」に貫かれている

 つまり次のような話です。

 貨幣はそれ自体なんの価値もないものである。しかし人は「みんながそれを受け取っているからそれを受け取る」し、しまいにはそれに人が支配され「疎外」される。貨幣は「はだかの王様」だ。

図表4-3

MMTとの決定的齟齬

 この「貨幣観」が「貨幣は納税手段だから受け取られ、それによって人は動かされる(労働させられる)」というMMTのビューと決定的に相容れないことは一見しただけで明らかでしょう。

 松尾さんはその理解によってゲーム理論を使って制度分析すらするのです。実はこのことはこの本だけではなく、松尾さんの仕事のほとんどに関わります。

 ああ、だからMMTがわからないんだ。。。

マルクスに関する微妙だが本質的な誤解

 マルクスについては、さすがに少年の頃から関心を持っていただけある知識量があるのはわかります。これも他の諸論文と同様に。

 しかし今回ぼくは、上の図表で松尾さんが「貨幣を神と同じ地位につくもの」とされているところに、一見微妙だけれども決定的な誤解が潜んでいるのを理解しました。

 神の位置に着くのは「資本」であって「貨幣」ではないのです。

 この微妙な勘違いによってご理解を推し進めてしまった結果が「変なマルクス論」として結実するのです。

マルクス=MMT図との比較

『「疎外」ということ』と題される第三章の最後に下の図がありました。

98ページ

 これは、最近ぼくがつくったマルクス=MMTを熱力学的に表現しようとした図(こちらのエントリ)と似た形をしています。

 「疎外」はいいのだけれど、何か重要なものが欠けている。

 これがぼくの図。

マルクス=MMTを熱力学的に表現した図

 抽象化バージョンもありまして、ぼくは資本の増殖過程を下のように表現しました。

圧力による価値(資本)増殖の表現

 違いがわかるでしょうか。

 松尾さんには、価値(資本)増殖の圧力が現実の労働者を強制的に動かすという観点が完全に欠落している

 これは資本でなくて「貨幣」が神と考えてしまったせいでしょう。

(そしてセイをマルクスに接続することで主流思考に媚びを売り、資本にとって危険でない存在になることによって、学会で評価され、教授にまで出世なさる人物にはプロレタリアートの実情を体感することできない)

 メール対談をしたときのぼくはずいぶんフラストレーションを溜めてしまったのですが、あれはこうした松尾さんの鈍感さに我慢できなかったのだなと今はわかります。

 ぼくの約五年に渡る松尾さん分析の旅はこれで終わりです。

 松尾さんの諸議論は、確かにぼくのMMTおよびマルクス理解、「なぜ日本人はマルクスやMMTをなかなか理解しないか問題」の探究のための重要なガイドの一つになりました。

 人の縁の不思議さを想います。

 ヒントは書きました。
 松尾さんの今後のご覚醒(まずはご自身が誰かにモノを教えることができると思うことをやめる)とご活躍を期待してやみません。

 ところで。。。

熱力学的描像において「貨幣」はどのような位置を占めるのか?

 さて、関連してこんなことを考えています。

 ぼくは最近、「貨幣」という「実体(?)」に注目してしまうことがさまざまな間違いの原因なのではないかと思うようになっていました。

 実体的なものと思うから「その合計」を計算しようとしたり、「神なんじゃないか」と思う人が現れる。

 しかし無視するわけにもいかない。

 ここで、上のエントリでも触れたエンゲルスの言葉がヒントになるかもと考え始めています。
 つまり物理学者がかつて「熱を実体と見なしていたこと(熱素説)」と似ていないだろうかと。

しかし、自然科学においてさえ、現実の関係を頭で立たせ、映像を原像とみなしている理論、したがってこうしたひっくりかえしを必要とする理論に、まったくよく出会うのである。このような理論がかなり長く支配することも、まったくよくあることである。ほとんど二世紀のあいだ、熱は、普通の物質の一つの運動形態とみなされないで、ある特別の神秘的な物質とみなされていたのは、まったくこれと同じばあいであり、そして力学的熱理論がこのひっくりかえしをおこなったのである。それにもかかわらず、熱素説に支配された物理学は、熱にかんする一連のもっとも重要な法則を発見し、そしてとくに〔J・‐B・‐J〕フーリエとサディ・カルノーによって正しい見解への道が拓かれ、さらに今度はこの見解が、その先駆者たちによって発見されていた諸法則をひっくりかえして、それを、自分自身の言葉に翻訳しなければならなかった。

『[反]デューリング論』への旧序文、より

 
 エンゲルスは、天才カルノーのあとにさらに「ひっくりかえし」があったと言っています。
 これは明らかにクラウジウスやトムソンらによる熱力学の定式のことを指している。

 そしてエンゲルスは太字のところに興味深い注を入れているのです。

 カルノーの函数 C を文字通りにひっくり返すと 1/C =絶対温度 となる。こうひっくり返さなければ、この函数は無意味になる。

  これは書き替えると、C = 1/絶対温度 は意味があると言っているのと同じです。

 現代化学において 1/絶対温度 はたとえば反応速度と正の相関を持つ概念として使われます。

 また エネルギーをエントロピーで微分したもの(∂E/∂Sこそは 1/絶対温度です。

 で「貨幣」です。

 貨幣はかつての「熱」と同じように、「普通の物質の一つの運動形態とみなされないで、ある特別の神秘的な物質とみなされて」いるのではないか。

「貨幣量の逆数」の意味は?

 してみるとエンゲルスに倣い、貨幣量(M)は無意味だけれども、その逆数 1/M には意味があるのではないかと考えたくなります。

 貨幣量が大きくなるほど小さくなる量は?

 1/M、それは「各個人が受ける将来不安の大きさ」ではないでしょうか。

 そしてそれは社会的ドラッグに比例して大きくなり、人間の「仕事」はそれによって取り出される。

 うん。

 これからぼくはこう言いましょう。

 \「貨幣量」には意味はないけれど、その逆数には意味があるよ!/

 さらにボルツマン定数を考慮して統計的なことを考えても何か言えそうな気がしますが、今後の課題ということで。

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