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バーチャル化に向かう体験

◯です。

最近WIREDをちょくちょく読んでいたのですが、水口哲也さんの記事「肉体と魂を重ねた祝祭体験のこれから」を読んでいて体験の消失を思いました。

体験は、生涯学習的にも人にいろいろなことを教えてくれる貴重な行いの一種です。

体験できなくなるということは、知識で終わってしまうということ。

インプットしたはいいけれど、アウトプットできない。

そんな体験について今回は考えます。

体験の消失

自粛期間が始まり、身の回りの普遍的だったことは変わりはじめています。

体験もその一つで。

ワークショップのような○○体験のような体験型学習や、お祭りや踊りといった体験。これらが以前と比べて消失しました。

当然、体験には人と人との関わりがほとんどつきもの。

マンツーマンならともかく、集団で体験するものは”自粛”や”密”といった言葉により中止を余儀なくされました。

水口哲也によると、体験とは

肉体的な側面と精神的な側面が融合することで複合的な感覚として立ち上がり、刻まれていくもの WIRED37号、p162より引用

と定義されています。

肉体と精神、両方を同時に感覚としてインプットする。とぼくは解釈しています。

例えば建築ツアーなんかは、実際に建物を回るといった肉体的な経験、そして建築家の意図などを解説により知るといった精神的な経験が合わさることで、体験となります。

そんな体験を得ることのできる機会が少なくなってきている。

現実世界における体験が減少してきた今、舞台はヴァーチャルに移行してきているのかもしれない。


VR


あたかもその体験をしているような感覚に陥ることができるもの。

それがVRです。

ぼく自身、VRを体験したことは無いのですが、これは新時代の体験を象徴するシステムだと思います。

例えば、ゲームであれば、自分がその世界にいるような体験ができるし、美術館であれば、名作を導線や混雑を気にせずに鑑賞することができます。

そして、人に会うこともない。このことがニューノーマルと歌われるこの世界において最も大切なことなのです。

VRの欠点としては、肉体的な側面が限定されてしまうこと。視覚的な体験はできるものの、実際に作るような経験はできません。

陶芸教室やワークショップなんかはそれに当たります。

今後、体験は視覚的になるのでしょうか。

しかし、VR下でも体験できることがあります。

それが踊りです。

触覚を使わない経験で、肉体的な側面も併せ持つ。

体で覚えることができる踊り。これぞVRで味わえる究極の体験なのではないでしょうか。

あらゆるフィールドに対応できる踊りという体験が、これまで生き残ってきたのも納得です。

となると、VRはほとんどの体験を解決できるわけです。

風習や生涯学習、発表会のような体験の場は、もしかしたら今後、新たなフィールドに到達するのかもしれません。


体験はどこに向かうのか

体で感じた経験。これが体験。

新たな生活様式が求められるようになった新世界において、体験が消失することはほぼないのではないかって思います。

色々考えてみようと思いましたが、VRが体験の場を与えるということがほぼ全ての体験の消失を解決してくれるのではないか、と思い他の考えがあまり浮かびませんでした。

他にどんな未来の体験が予想できるかどうか、思いついたらまたアウトプットしていきたいなあと思います。

しかし、もの作りをするようなワークショップ形式の体験は、VRでは解決することができません。

工作キットの販売とかはできますが、どうも味気ない。

人に伝統や技術、芸術を教わることに真価はあると思うので、やはりワークショップの人と人との繋がりは必要です。

それが難しい現在。体験はどこにいってしまうのでしょうか。

やっぱりぼくは触れる経験ってすごい大切だと思うので、VRに体験が移行していっても、触れる体験は守るべきであると思いました。

余談ですが、触れる体験は以前記事にしてみました。

どうすれば新世界で触れる体験はできるのでしょうか。

まずは、これまでの体験の場が復活してくれることを願います。



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