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教養ってなんだろうか?~『社会人のリベラルアーツ』を読んで

学生時代からから聞くようになる「教養」という言葉。学生の頃は「一般教養」という呼び方で接していたように思います。

この本で触れられているように「教養」は人格を磨いていく、高めていく為にも必要だという考え方も聞き覚えがあります。反面、勉学を極める、教養に触れていくことで人格も修練されていくとは感じません。

スポーツも○○道のように、その道を極めていく過程で人格も云々と言われることもありましたが、実際はそうではなかったりしますよね。

それとこれとは「別」だと思います。人格を磨く、高めるのは教養や知識、スポーツの競技力とは全く別の取り組みで、本来はそこにくっつけるものではないと思います。

そこをくっ付けると学ぶ際も「完璧な他者」から学ばねばならず、それは非常に困難だと思うんですよね。

分離して考え、人格は自分で高めていく努力をするもので、知識や情報、教養と呼ばれるものはあくまで能力を高めていくものだと思います。

ましてスポーツは本質的には「遊び」であり、人格形成云々とは切り離すべきだと思います。遊びの過程で大いに楽しみ、競い、学ぶ、育む。自然と人格形成に繋がっていく。そういうのはスゴく良いことだとは思います。

上記の理由で、教養等から人格形成云々を切り離せばもっと自由に、気軽に古典や哲学、アートなども触れられる、学べる、遊べるのではないでしょうか?

もっと実用的で、もっと身近なものが教養だと思います。高尚なものと位置付けちゃうと倦厭されちゃうと思うんですよね。

哲学も歴史学も実生活に役立つと思います。現在は教養ではなく、リベラルアーツという言い方が普及しているのもそういった考え方だと思います。

もっともっと広がれば良いな、そういった学びが実用的でかつ楽しいと思われるようになれば良いなと思います。

高尚であるというのは1つの特別感を形成しますし、広がらないからこそ「その界隈」では敬われたりするのかもしれません。

ですが、そういう仕組みも限界が来ていて、そもそもの「界隈」がジリ貧であればどうにもなりません。スポーツや囲碁もそうで、界隈の権威より広く普及していく方が大切だし、急務だと思います。

不要不急という言葉を聞く度に苦しい状況が出来するのは辛いです。そんな想いと所感をこの本の序文の段階で思い浮かびました。


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