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結婚というものを意識しだした

今までは漠然といつかいい人がいたら結婚はしたいな・・・くらいの感じでいた。でもそれは遠い未来の話のように輪郭がぼやけている感じ。

ばあちゃんが亡くなって、親戚が集まったりして、周りが話している様子とかを俯瞰で見ていたら、『あぁ、もしかしたら結婚とか家族というものってこういう時にどれだけ人が寄り添えるかというところにあるのかな?』と感じた。

家族で血が繋がっているもの同士なのに、歪み合っていたりとか、仲が悪かったり、疎遠になっているとか自分の中ではそういうのは、悲しいと思ってしまう。どういう事情があれども、そうさせてしまっているという事実が悲しいのだ。

それは自分の理想の家族像とはかけ離れてしまっているからだろうけど。

それだけの理由で何でもかんでも否定したりとかはもちろんしない。どういう事情があるかまではわからないから。

でも、自分の理想とする家族像としては、血が繋がっていないパートナーのご両親とか、兄弟、姉妹とでもどこまでも仲良くできたらいいなというものがある。

血の繋がりだけが全てのものを繋ぎ止めているとは思わない。

でも今まで全くの他人だったのに、急に自分の身を任せるレベルにまでしてくれ!とはもちろん思わない。そんな要求は烏滸がましいと思ってしまう。

たった一人の人と理解を深めていくことですら難しいのに、家族単位で深めていくということはとてつもなく骨の折れる作業な気もするけど、実はそれが生きる上で一番の大仕事なのではないか?とも感じる。

それは、何もないところから家族というものを作っていくというある意味では不自然な作業であるということ。

傷ができたらどんな手を使ってでも治癒しようとする人間の体と同じように、違和感があったらそれを排除するように仕掛けられている・・・?

なんでも素直に受け入れないということで自分の身を守るという自然のルール的な何かがあるような気がしてならない。

だからこそそこに入っていくのはとても難しい。

多くの歴史がそこに敷き詰められているから。

簡単に仲のいい家族像とか言ってしまうと、そんな簡単なものじゃないと言われてしまいそうだと思うが・・・

ただ、少し違うのは、仲のいい家族を作るというのは実はそこまでこだわっていないというところもあるのだ。

仲のいい家族というよりは、誰かが亡くなったときに、一体どれくらいの人数の家族がその場にいて、そして支えの量がいくらくらいあるのかというものが自分の中でのこだわりになっている。

1人で抱えるよりは2人の方がいいし、3人の方がいいし、10人、20人と増えていくのが最高の理想だと思っている。

結婚というのは、大変なことが多いよと言っている人もいるけど、それは当然で、その中で、その大変だというものをどれだけ緩和できるのか、大変な時にどれくらい支えることができるのか。そこだと思っている。

とは言っても結婚なんてしたことないし、そこまで意識しながら付き合った人とかもいないから全て妄想みたいな感じにはなってしまっているけど。

染められていないからこそ、自分の理想みたいなもの、軸のようなものが定まっているのかもしれないし。良くも悪くも。

ここ最近も『結婚願望あるの?』と聞かれることが妙に増えた。

『まぁ、いい人がいたら?』と言うと、『そんなのいい人がいたら結婚したいって思うの当たり前じゃん!』とツッコミ・・・

あぁ、自分は相当結婚について考えていないんだな・・・と少し反省。

反省というか、考えるべき年齢になってしまったんだと、諦めと絶望?

一人がついつい楽なので、誰かと時間を共にするとかあんまり考えたりしなかった。考えてしまうとたいへんだって思い込んでいたから。

自分の周りの既婚者に色々聞いたら、なんでも話してくれたりするこの素晴らしい環境の中で、僕は一体どれくらいその価値というものに触れることができるだろうか?

今そばにいる人たちは、みんな結婚はいいものだよって口を揃えて言っている。別の環境にいる時は、みんな『結婚しない方が自由でいいよ・・・』と嘆いていたから。それが結婚なのかな?と幻滅していたのもあるのかもしれない。

そして、今そばにいる人たちの顔というか、表情を見ていると説得力が違う。みんな幸せそうな顔している。本当に良いものだと思っているんだな・・・と考えさせられる。

もし結婚したとしても、この周りの人たちがきっと僕たちを支えてくれるのかな?とか少し温かみみたいなものを期待してしまう。

そんな未来もきっと悪くない。

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