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【読み放題対象】あなたに本当の民主主義ってやつを見せてやりますよ ~聖なるものとしてのアメリカの民主主義と原爆~

バイデンは、異常な妄執にとりつかれたパラノイアックな政権を作っていく印象を与える。

たとえば先日、バイデンは財務長官にイエレンFRB前議長を起用した。女性初の財務長官となる。これで財務・予算・経済政策の三つ全てのトップが女性に内定したわけである。そのほかも、バイデンは広報担当の幹部要職すべてを女性で固めた。これもアメリカ史上初だそうだ。しかし、それに一体、何の意味があるのだろうか。
そしてバイデンは誇らしげに「史上最も多様性のある政権」を掲げるのだが、果たして、これが「多様性」なのだろうか。たとえばバイデンのいう「多様性」とは、この人のいう「多様性」と似ていないだろうか。

私は彼の意見をみて思った。「もう古いぞ、おまえらは負けたんだぞ、世の中の流れはこっちだぞ、と同調圧力をかけて強要される多様性って一体なんなんですか?あなたのいう多様性って、世界をリベラリズムの正義で均質化することなんでは?」、と。

なぜ「多様性」を称揚するリベラルとは、こんなにも敵対する意見に、自己への合一を強要するのか。なぜ自分たちの側が、主流であり、多数派であり、唯一の価値観であるかのごとく世界を一色で塗りつぶさないと不安なのか。つまり彼らのいう「多様性」とは、一種の強迫観念に基づいた「異なる他者への非寛容」であり、「政治的正しさの帝国主義」なのではないのか。
実際、今回もバイデンによって、国家の経済チームや広報チームは「とにかく女にしておけば正義」とばかりに、「性役割固定の職場」に退行してしまったようだ。これはもはや「多様性」を口実としながら、「男性がトップになるなど政治的に正しくない」という政治的な非寛容さの表出ではないか。そして社会上も「多様性」の名で行われるのは、実質的な「女性優遇」と「黒人優遇」の二本柱である。

もちろん、トランプも、女性初のCIA長官を誕生させている。トランプ政権下でも閣僚や重要ポストには女性も多くいたし、さらには、アフリカ系女性(国務省政策立案局長)にアジア系女性(運輸長官)もいた。

だから、バイデンが前例を打ち破り、女性をどんどん登用してリベラルの輝かしき金字塔を打ち立てようとしてる的イメージは、一種のフィクションに過ぎない。
バイデン政権は、別に女性登用率の低かったわけでもないトランプ政権を上回って、いやそれどころか実社会の男女比をも上回って、なにがなんでも女性を登用するオブセッションにとりつかれているようだ。

そこで、この(多様性への)強迫観念に何かヒントはないかと、史上初の女性副大統領となるカマラ・ハリス氏の勝利演説を改めて読んでみた。次に登壇し演説するバイデンを紹介する内容なのだが、よくよく見れば結構、奇妙な印象を受ける。「民主主義」という言葉のおかしな使い方が頻出するのだ。たとえばこんな感じである。

今回の選挙には、私たちの民主主義そのものがかかっていました。アメリカの魂そのものがかかっていました。世界中が注目する中、皆さんが新たな日をアメリカにもたらしてくれました。
And when our very democracy was on the ballot in this election, with the very soul of America at stake, and the world watching, you ushered in a new day for America.
(カマラ勝利演説 CNN動画 英語全文 NHK全訳 東京新聞全訳)東京新聞訳使用

違和感を感じないだろうか。というか私は唖然とした。

私たちの民主主義そのものがかかっていました。アメリカの魂そのものがかかっていました」

これでは、まるで、トランプが勝ってしまっていたら、「民主主義は後退した」かのような言い方である。

しかし当たり前だが、バイデンが勝とうが、トランプが勝とうが、どちらも「民主主義」である。なぜなら、民主主義とは「国民や人民が決定するという手続きの形式」であり、「出力される政治の内容」ではないからだ。公正な選挙が行われたなら(トランプ側は不正な選挙がおこなわれたと主張しているのだが)、誰が選ばれようとそれは民主主義が正常に機能してると考えるべきだ。
つまり、自分たちの陣営が選挙で勝利したからと、「民主主義」を高らかにもちだすのは、それこそがむしろ「民主主義を尊重しない態度」の最たるものなのなのではないか。
どちらに転ぼうが、一度決めた民主的なシステムに基づいた選挙結果を「民意として正しいとみなして尊重するほかない」のが民主主義である。

そして「自分たちに好みの結論が出たら、これが民主主義の勝利だ」的なことをいう人間は、逆に「選挙で自分たち好みの結論でなかった」ときには、「これは民主主義の敗北=壊れて、機能してない状態なのだから、抗議のため暴動でもテロでもやっていいのだ」という考えに容易に結びついていくだろう(たとえばBLM運動のように)。

人間は言葉なしに抽象的な論理思考ができない生き物であるから、言葉は人間の思考のフレームを縛り拘束するものである。いまアメリカでは「民主主義」(Democracy )という言葉は、どういう意味でつかわれ、そしてアメリカという国民国家を制約してしまっているのか。

アメリカの魂としての民主主義?

それでは、具体的に、カマラのいう「民主主義」とは、一体どういうことなのだろうか。続けてきいてみると次のようにいっている。

・女性たちは闘い、多くのことを犠牲にしました。すべての人々に平等、自由、正義をもたらそうとしたためにです。黒人女性たちはあまりにも見過ごされてきました。しかし、民主主義の根底にある大切な存在だと証明してきたのです。
・ジョーが大胆な性格の持ち主だという、なんという証しでしょうか。彼はこの国の歴史に残る最も堅固なバリアを打ち砕き、女性を副大統領候補に選んだのです

「黒人女性」は、アメリカの民主主義の歴史の中で(抑圧されてきた存在だから)「民主主義の根底にある大切な存在」としている。

要するに、バイデンとは、民主主義の根底にある大切な存在の「黒人女性」であるカマラを、副大統領候補として選んだ決断こそが称賛すべき個性であり、そのバイデンが大統領に選ばれるかどうか問われた意味でこそ、「今回の選挙には、私たちの民主主義そのものがかかっていました」とつながっているわけだ(なんとひどい)。

つまり、はっきり明言はしてないがまさに「バイデンが選ばれたからこそ、今回の選挙で、アメリカの民主主義は証明された(トランプが勝っていたら民主主義は後退した)」という論理にもなろう。

象徴的なのが、演説の出だしでカマラは、「民主主義は状態ではなく行動である」という言葉の引用からはいる。この言葉を遺したジョン・ルイス下院議員とは、アメリカの人種差別撤廃の公民権運動で伝説的な人物(黒人)である。つまり最初からカマラの使う「民主主義」という言葉は、抑圧されてきた「黒人」の発言権の拡大がセットになった意味での「民主主義」なのだ。

しかし、カマラは「女性を副大統領候補に選んだのです」とバイデンを称賛するが、カマラが選ばれたのは、その「女性・黒人」という弱者記号が評価されたのであり、政治家としての評価は二の次、三の次なのか。
(ここではあえて巧妙にも、「黒人」を加えてないが……そこを強調すると「人種差別的」となるからだ)

いや事実としてそうなのである。「カマラが黒人女性だから、民主党は副大統領候補に選んだ」というのは、公然とした事実である。
民主党の副大統領候補として名前が挙がっていたエイミー・クロブシャー上院議員(白人女性)は、その辞退のときに、「いまは歴史的なときで、この機会をつかまなければならない。昨日バイデン氏に電話をし、有色人種の女性を選ぶべきだと伝えた」とMSNBCの番組で語っている
バイデンは副大統領候補を女性にしますともとから公約していたが、いざ打診された女性議員は「それだけじゃ弱いな~。有色人種要素も加えなさいよ」といったわけである。
そもそもここでの「有色人種」は「黒人」の婉曲表現である。ユナイテッド航空の「顧客引きずり下ろし事件」でも問題になったが、たとえば「教育熱心で勤勉で所得も高いアジア系」などは優遇されるマイノリティとされず、「なにをいってもおとなしくいうことをきく行儀のいい人たち」枠でむしろ不当な要求が公然と押し付けられ差別される。

なんだかアメリカの「黒人」も、ここまで舐められて怒らないのだろうか。
第一候補だった女性議員から譲られて、肌の色で副大統領候補になるのは、本来は彼には、そこにつく能力がないと宣言しているに等しいではないか。それなのに、なぜこんなにもカマラは得意げなのだろうか?

白い猫だろうが、黒い猫だろうが、オスでもメスでも、ネズミをよくとる猫が選ばれて、しかるべきなのだ。
「機会均等で、能力や適性から副大統領にふさわしいと選ばれた結果が、黒人女性」ではなく、「黒人女性だから副大統領に選ばれた」なら、「表面上の結果ありきの平等であり多様性」に過ぎないだろう。本来守られるべきは人種関係無くそれらの職に付くことが出来る「機会平等」ではないか。
(一応書いておくがイエレン氏など、その分野では定評ある最高レベルの実力者なのは間違いないが、全員が全員を女性にするという意志をバイデンが示す以上、まず女性ありきの選考で、それより他にふさわしい男性がいるかどうかは考慮されていない人事結果にみえる)

そして、機会平等がないがしろになっているだけではなく、肌の色で政治家を決めようとするなんて、一種のルッキズムではないか。それが美人だから、巨乳だからと選ぶのが政治的に正しくなくで、「黒いから」と選ぶのが政治的に正しいということはないだろう。
「出身身分や、性別や肌の色で人間を判断してはいけない。中身はみんな同じ一人の人間なのだ」という考え方(守るべき建前)こそが平等であり、その原則に基づくのが「近代民主主義」であるはずが、高度なリベラル政権ほど、「外面的な肌の色や性別で判断」し、またそれを「民主主義」と言い出すのは不思議な話である

そして、繰り返すが、民主主義とは「国民や人民が決定するという手続きの形式」であり、「出力される政治の内容」ではない。所詮は、「民主主義とは結果ではなく過程である」。それが残念な悪政であっても、あるいは侵略的な戦争を決定しようが、とにかく民主的に決められた過程こそを重視するのが民主主義である。絶対的に正しい「民主主義的な出力結果」があるならば、そもそもその基準で決定すればよく、皮肉にも「民主主義はいらない」ということになる。民主主義的な“優れた”独裁者に民主主義的な政治を独裁的におこなわせたら“完璧な民主主義”になる。

もちろん「同じ国民」であるなら平等に(二級市民を作らず)、選挙権に被選挙権が与えられることは当然の前提として、カマラが「黒人女性」だからと国民に人気があり、その効果もありバイデンが選ばれたとしたら「民主主義」だ。
しかし同様に、「白人男性」のペンスを副大統領とするトランプがその反グローバリズム、反新自由主義的な政治主張で国民に人気があり、あるいは単に「綺麗ごとばかりのリベラルにもううんざりだ!!」というキャラクターから選ばれていたとしても同様に「民主主義」である。どちらがより「民主主義」ということもない。同じ「国民」なら、民族・人種・性別問わず選挙権を行使し、自分たちの声を託す大統領を選んだ結果なら、それこそが“誇るべき”「民主主義」である。

逆に、たとえば北朝鮮では権力の実質ナンバー2に女性がついているが、これは「民主主義を証明している」のだろうか。いや、単に血族人事(妹)というだけだろう。ほかにもアフリカや南米等は血族優遇社会なので、非民主主義的で独裁的な政権ほど、女性も重要な職が与えられている例がある。
つまり女性の登用率は、民主主義を全然、証明していない。「高度に発達したリベラル政権の女性優遇人事は、人権後進国の独裁政権と区別がつかない」という現象かもしれない。

こうした「表面上の数あわせの結果平等(多様性)」に固執するあまり、機会平等をないがしろにする政治的態度は、ほんとうに融和に役立つのだろうか。
別にアメリカ国民の多くが賛同すれば「人種のクォーター制」のようなものまで導入したらいいとおもうが、性別と違い「人種のクォーター制」みたいなものを導入したら、ますますアメリカでの人種の固定化や分断は進むだろう。
本来、人種というのは遺伝学的な根拠はなく、イデオロギー的な見方だし、かつてのアメリカのようにアフリカ系の血が一滴でもはいっていたら「黒人」みたいな考え方は、まるで放射性廃棄物のように汚れしもの、いつまでも人種を固定する考え方だ。
(唾液でできるDNA調査で結構な割合の「白人」が実は非ヨーロッパ系の血がはいり、白人至上主義者の代表もアフリカ系の血がはいっていたりして現代ではこのイデオロギーはむしろ自壊している……アフリカ系奴隷は将来に絶望し増えないので、ヨーロッパ系に「種付け」られて「繁殖」させられた陰惨な歴史ももつため、現在のアメリカ人の「白人」「黒人」の境界は実はかなり曖昧だ)

ナチスのニュルンベルク法の成立過程において、アメリカの人種差別の法が所々参考にされたのは紛れもない事実のようだが、あのナチスですら血の一滴法にはドン引きしたという。だが、現代でもオバマやカマラのようにハーフが「黒人」となるのは、第三者の、たとえば「日本人」からしてみると、なんだか違和感を感じる(オバマはたまたまケニア出身「黒人」の父親の外観を多く引き継いだにすぎない)。それ自体が本来は「政治的に正しくない」のではないか。「黒人」でもない「白人」でもない、つまり「人間である」とはならないのか。

それを象徴するのがバイデンの「僕を支持するのかトランプを支持するのか、なかなか決められないっていうなら、その人は黒人じゃないよ」という発言だろう。「バイデン支持者にあらずんば黒人にあらず」ということだ。この発言は「黒人」はボーグのような集合生命体の一端末に過ぎず、「肌の色は思想を決定する」ということになってしまう。バイデン自身も釈明に追われ、失言扱いされるが、そんな枝葉な問題ではないとおもう。むしろバイデン陣営の掲げる「多様性」の必然的な帰結を物語っているのだ。
要するに「女性ってだけじゃ弱いな~。黒人女性でなくっちゃ」みたいのは、「個人である前に黒人」と判断することである。本来、リベラルは「黒人である前に個人」ではないか。個人の自由を尊重し、個人を集団や全体で考えることを嫌悪する思考の筈なのに、一方で、そのリベラルな価値観の「多様性」は「個人であるまえに黒人」、集団の枠組みで考えることから成り立つ。それぞれの個人の多様性を、「黒人」の枠内に封じ込める立場でもあるのだ。
つまり政治的に正しい「多様性(という黒人優遇)」は、同時に政治的に正しくない「黒人固定」(そういうイデオロギー的な人種カテゴライズ)に支えられている

結局、バイデン政権とは、政治的正しさを利用したリベラル・ポピュリズムであり、「白人と黒人、ヒスパニックなど」の間の分断を既得権化し、「分断」を憂いながら「分断」を商売の糧として、固定化してしまうのではないか。

これはなぜか。かつてマニフェスト・デスティニーとよばれたアメリカ共和制民主主義の拡大は、いまや西へ西へと空間の拡大へ向かって進むものではなく、限りなく過去へ、しかも失われた過去をもとめるようなものに変質してしてしまっているからだ。

なぜ、アメリカの「民主主義」は、このような言葉になってしまったのか。私は、そこにはアメリカの民主主義への歪んだプライドと、拭い難いコンプレックスがあると考える。アメリカの本当の本当の民主主義とはなになのか。
そのため少しく、アメリカの民主主義の倒錯を、日本との関係から明らかにしていこう。

これは「聖なるものとしてのアメリカの民主主義と原爆」の物語である。なぜアメリカは原爆を投下したのか。いままでは原爆投下は(日本を降伏させるために)必要だったのか不必要だったのかというフレームで論じられることが多かったが、なぜそもそも、アメリカはそんな原爆をおとさないと受け入れ難いような無条件降伏の要求をしたのかという視点がかけている。それはまさに、今回の「史上初の黒人女性副大統領を生み出したアメリカの“民主主義”」と同じ一連の流れである。どちらもアメリカの民主主義を証明するためだったのである。

そして今は、「日本のイジメ問題に、巧妙に人種差別の描写をまぎれこませたイメージビデオ宣伝」を製作するナイキというグローバル企業を生んだのもアメリカである。原爆投下もナイキCMもすべて一連の流れであり、一種の「政治的正しさの帝国主義」として認識されなくてはならない。
民主主義と原爆投下の関係、そして、アメリカの民主主義の今後を知るために、この歴史の一連の流れを一つの視点で整理して、わかりみを与える論考がこちらである。あなたに本当の民主主義ってやつをみせてあげましょう。なぜトランプがあそこまで嫌われたのか。嫌われなくてはならなかったのか。そこにも明快な回答を与えるのが本論である。

民主主義の先進国グループとしての大日本帝国


さて、日本のリベラルはほんとうに不思議なのだが、


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