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【どう生きる】少年院卒が唯一怖いもの

誰にでも怖いものはあると思う。

自分が正しいと思う道を外れることやお化けや虫なんかの物理的な怖さ。

経済的、精神的な不安を怖く感じる人もいるだろうし、自分よりもたくましく賢い人に恐怖を抱いたりもするだろう。

私は28年生きてきて、いろんな経験をした。

見る必要のない景色も見たし、見る必要のある景色を見ない経験もした。

「怖いものなんてないでしょう?」

「悩みなんかあるの?」

とよく聞かれるが、私に怖いものはあるのだろうか。

今日はそんな話をつらつらと。


死ぬのは恐怖じゃない


私にとって死は恐怖ではない。

いずれ必ず来るもので、否応なしに受け入れなければならないものだからだ。

死から逃げることはできないし、避けることもできない。

世界のお金持ちは不老不死を目指しているようだが、長く生きることが正解だとも思わない。

むしろ死があるからこそ、人生は楽しいんじゃないかとすら思う。

27歳のとき、初めて救急搬送された。

真夜中にどうしようもない腹痛と吐き気に襲われ、いてもたってもいられず119番に電話した。

這いつくばってマンションのオートロックから出て、道路に寝転がって救急車を待った。

現れた救急隊員の人もお医者さんや看護師さんもみんな神様に見えた。

意識を失うほどの痛みだったけれど、頭のどこかで必死に生きようとしてると感じたのを覚えている。

そのときに思った。

自ら命を断つという行為は、相当な勇気と決断力がなければできないんだなと。

逆に、死が迎えにきたそのとき、そこから逃げることもできないんだなと。

死ぬんだという気持ちも、死から逃げることも、お医者さんに為せることではない。

あの感覚や景色は、人間がどうこうできるような次元の話ではないのだろう。

みんな死ぬのが怖いんじゃなくて、死に方が怖いだけだ。

痛みや苦しみの中で死を迎えることに恐怖を抱いているだけで、SM愛好家としても死は快楽であると断言できる。

そもそもセックスにおける「イく」という感覚は、死に近いものがある。

果てるという感覚も死に近く、人間は本能的に死が快楽だと体で知っているのだろう。

そんな風に紐解いていけば、死ぬことへの恐怖はなくなるのではないだろうか。

私の大好きな映画「ハリーポッター」に出てくるセリフに、こんな言葉がある。

「死を喜んで向かい入れることができる人生と、死から逃れようとする人生のどちらを幸せだと思うだろう。」


他人の動向は自分の悩みや恐怖にならない


私の1番の強みはこれだと思う。

他人の動きが自分の悩みや恐怖に関わってくる人は多いだろうけれど、私は全く気にならない。

誰がどこでなにをしていても私の人生には関係がないし、それが友人だろうと彼氏だろうと家族だろうと興味がない。

私はテレビを見ないのだが、ワイドショーより無駄で脳みそを腐らせる番組はないと思っている。

大人たちが他人のプライベートにああでもないこうでもないと無責任に口を挟んでいる様子は、とても滑稽だ。

誰かの結婚や離婚も、不倫や犯罪行為も「だからなに?」と思う。

芸能人、有名人として食い扶持を稼いでいる以上、他人にとやかく言われるのも仕事のうちなのだろうが、「お前らも同業者のくせになにを偉そうに」と思ってしまう。

そんなものを毎日何時間もぼーっと眺めていれば、脳みそが腐るのも当然だろう。

他人の動向に左右される人というのは、無意識のうちに他人に期待している。

「してくれて当然」

「あの人ならこうするはず」

と、こちらで勝手に期待し予測を立て、それを前提に行動する。

そして相手に自分の思い描いていた期待と違う行動をされると、今度は裏切られたと「勝手に」思い込むわけだ。

自分のオナニーに他人を付き合わせておいて「なんで私の思い通りにならないのよ!」と言われても、申し訳ないが、ただただ痛いだけである。

私は他人に期待などしていない。

親にも友人にも彼にも仕事関係でも、誰にも期待しない。

「誰もやらない、私しかやらない」

それを前提にいつも動くから、他人がどうしようと私の人生に影響はないし関係もないのだ。

それでも時々、ひとりでは抱えきれない問題にぶつかることもある。

そんなときは「お願い」するのである。

私のお願いを聞き入れられる人と聞き入れられない人がいて当然だし、周りの人がみんな助けてくれるとも思っていない。

もしも全員が助けられないと言ったら、「神様は乗り越えられない壁は与えないんだ」と考え方を変えて問題に勤しむだけのことだ。

このnoteで何度も話しているが、自分の人生の責任を取るのは自分だけである。

ネットで妻や夫に不満を抱いて相手を罵詈雑言責め立てている人を見かけるが、滑稽で惨めで、寂しい人生を送っているんだなと感じる。

世の中には離婚という制度があって、「しても良いこと」として認められている。

子どもを理由に離婚しない夫婦は多いが、子どもの立場からすれば2人の問題を自分に押し付けられるなんて御免だろう。

同じように会社を批判するなら辞めるという権利を使えばいいし、友人などいなくても生きていくには差し支えのない問題だ。

結婚も出産も絶対にしなければいけないことではないし、親は自分より何倍も早く老いて、兄弟姉妹には自分とは関係のない人生がある。

それでも「でもでもだって」と言う人は、放っておけばいい。

こちらがなにかしなくても、彼らは必ず最後に孤独を味わうハメになるのだから。


少年院卒が唯一恐怖を感じるのは「後悔」


私はとにかく落ち着きがない。

カフェでだらだら長話をしている人を尊敬するくらい、同じ場所にずっといることもじっとしていることも苦痛である。

家にいても常にやることを探しているし、「なにもすることがない」という状況に出くわすとソワソワしてしまう。

もちろん年齢と共に「休む」ということも覚えてきたが、それでも人よりずっと動き回っていると思う。

よく「なにをそんなに生き急いでいるの?」と聞かれるのだが、私にとって「やることがない」というのは恐怖なのだろう。

明日生きているかも分からないし、次の瞬間には飛行機が墜落して家ごと潰される確率も決して0ではない。

良くも悪くもそんなことを考えながら生きているから、今日できることは今日中にやりたいという意識がとても強い。

昔は全然動かない子どもで、祖母には「あなたは本当に腰が重いのね」とよく言われた。

億劫に感じることが多かったし、先延ばしにできることは全部先延ばしにして言い訳を並べてはヘラヘラしているような子どもだった。

だが、いろいろな経験をするうちに人生には大して時間がないことを知ったのだ。

有名なセリフに「明日やろうはバカ野郎」という言葉があるだろう。

私もその通りだと思う。

面倒なことは1番初めに片付けるのがオススメだし、今日やっても明日やっても同じなら今日やれば明日は楽できるのではないだろうか。

それになにより、次の瞬間死んだときに「やっておけばよかった」と思うのが最も恐怖なのである。

そういう星の元にでも生まれたのかと思うほど性犯罪に遭ってきたし、学校ではいじめにも遭って不良少女になった挙句、少年院送致にまでなった。

普通に生きていれば見ることのない景色を見続けて早28年が経ったわけだが、私が後悔していることはたったひとつだけだ。

亡くなる直前の祖母のお願いを聞かなかった。

聞いてあげられなかったなんて綺麗事を言う権利もないし、あのとき私は自分の明日を考えて祖母の気持ちを蔑ろにした。

それ以外のことは28年生きてきて、なにひとつ後悔していない。

性犯罪の被害者になったこともいじめに遭ったことも「いい経験、いい勉強だった」と思うし、少年院に入るべき人間だったから送致されたのだと思う。

祖母のことでどんなに悔やんでも取り返しのつかないこともあると学んでから、毎日を必死に生きている。

一所懸命働いて汗水流すような生活ではないが、私はいつ死んでもいいと思っている。

今日死んでも後悔することはないし、やっておけばよかったと思うこともない。

もしもこの先「あぁしておけばよかった」と思うようなことがあったら、私は自分自身をとてつもなく責め立てるだろう。

そうならないように、というより、そうはならないと心に誓って生きている。

それが祖母への償いでもあると思っているからだ。


不安や恐怖は人間あって当たり前



どんなにお金があって安定した生活を送っていても、逆にホームレスの一文無しになっても絶対に不安や恐怖はなくならない。

お化けでも虫でも怖いものは怖いし、お金があっても将来への不安を感じるときもあれば、ホームレスだからといって失うものがないわけではないだろう。

不安や恐怖のない人間を「強い」と勘違いしている人はたくさんいるが、それは強さではなく「カッコつけの意地っ張り」だ。

本当に強い人は、弱いところをさらけ出すことに躊躇がない。

助けてくれと声をあげることができるし、他人の手を借りることに恥やプライドもない。

見栄のために自分を犠牲にする人もたくさんいるが、そんなもののために人生を無駄にする価値はあるのだろうか。

誰にだって不安や恐怖があると思えば、助けてほしいと声をあげることに躊躇する理由はなくなるだろう。

強くなりたいなら、その分、壁を乗り越え経験をする必要がある。

そのためにも不安や恐怖はなければならない「大切な材料」だ。

死へ向かって生きているだけなのだから、今日も「これで良し」と思える人生を生きてみてほしい。


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