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令和の「経済学・哲学草稿」

『令和の「経済学・哲学草稿」』を大まかにまとめる上で、タイトルの元になったマルクスの『経済学・哲学草稿』を読み始めましたが、いろんな面で得心がいったことがあります。

1.『経済学・哲学草稿』自体がいろんな批判的小論の寄せ集めをつぎはぎしたもので体系性がない

2.近代国家を出発点にしているので、国家の本質が見えてない(これはマルクスの思想全般に言えますが)。

3.タイトルが『経済学・哲学草稿』なのに、経済学と哲学がなぜ一緒なのかの説明がなされていない。本文は古典派経済学批判とヘーゲルの『精神現象論』批判だけれども、両者がなぜ一緒なのかの論理的説明が無い。

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結局のところ、マルクスには「批判を寄せ集めれば体系になるだろう」と学問を甘く見ていたのではないかと思われる節があります。

あるいは、ヘーゲルの体系を唯物論的に転倒させた(わけでは実際なく、マルクスとエンゲルスが主観的にそう思ってるに過ぎない)だけで、ヘーゲルの体系にぶら下がっているので、自分の仕事はこれでOKだと思っていたのではないか?と。

「部分を寄せ集めれば全体になる」わけではないのは、実際にいろいろなことをやってみれば分かること。現代の用語でいえば、全体最適は部分最適の寄せ集めとイコールではない、ということです。

なので、令和の『経済学・哲学草稿』は、以下のように叙述する必要があります。

1.近代国家ではなく原始共同体から論理的かつ体系的に説く。

2.経済と哲学を一緒に説く論理的必然性を示す。

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あくまで草稿=習作ではありますが、おおよそはこのようになります。

・国家経済=経世済民学の根本要素:需要と供給=経済の原点、債務と債権=税と貨幣の正体、支配と非支配=国家による統括と再分配

・国家内経済主体の根本要素:生活を成り立たせるとは何か、労働と資産形成、継承と発展、政府=群れのボスの役割

・経済の様式を決定する根本要素としての文化=社会的認識の総体:経済と文化の相互規定的関係

・文化の最上位の形態としての学問:哲学は諸学を束ねる学問の冠石

・哲学から見た経済学の占める位置

・経済の具体的事象に社会的認識はいかに関わるか

というのが、『令和の「経済学・哲学草稿」』になります。

経済学=経世済民学を専門とする人に、学問としての経済学を説く入門になるように必要な要素を説くものであり、中学校の社会科公民の教科書を大学の一般教養レベルで説くとかくの如し、という内容になります。

国家経済=経世済民の正しい理解を出発点にして、そこから国家内で個人や組織がどのようにして経済力をつけながら国家としての全体最適に収斂するようにしていくか?

そしてそれらを束ねる社会的認識としての文化と、その最上位形態である学問のアウトラインとそれがいかに経済に関わってくるのか?

ということを問いていき、経済学を専門学として極めるための教養レベルの入門として、哲学と経済学のミクロとマクロの両面を一体のものとして説いていく予定です。

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