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言葉が認識になり「本当」になる

久しぶりに真面目な話!

最近気になっている名越先生(精神科医の素敵なおじさま)のこちらの動画を見ていて、色々思うところがあったのでつらつら書いていきます!

以下、読みやすさわかりやすさすっ飛ばして、書きたいことをひっちゃかめっちゃかに書いちゃうぞ!

実は今日、めっちゃめちゃ嫌な予定がありました。
前々から決まっていたことなので、覚悟はできていたんですけど……
本当にわけわからんしんどさで、震えたり勝手に涙が出てきたり、変な頭痛(普段感じたことのないような謎の頭痛)がしたり、友人と楽しく笑っていても、ふとした瞬間にぞわぞわと嫌な気持ちが沸き上がってきて、頭の中がごちゃごちゃになるような。
しんどかった~~~~~~~~マジで!
今もちょっとその状態が続いていて、変なふわふわした感覚があります。
気晴らしに映画でも見ようと思ったけど今の自分は何なら見れるのかわからず、どれも見る気になれず、でも何もせずにいると自分が壊れてしまいそうで、たどり着いたのがこちらの動画でした。

そしたら内容が、ここ数年の自分がずっと考えていること、意識していること、ちょっと悩んでいることにドンピシャの話だったんですよね。

動画の要約をすると
・人間の心が変わるのには外的な要因が必要。
こうできたらいいな~~と思っても、それだけで変わることは難しい。心ってとても本能的なものだから。
人生の中で、強いショック(良いものであれ悪いものであれ)を受けることによって、心は変わる。
・けれど「書くこと」には、人の心を変える強い作用があるかも。
書くことによって細部まで覚えることができるし、「私はこう考えている」という信念が出来ていく。やりすぎれば「頭がカタい人」になってしまうかもしれない。

よく言葉が人を作るって言いますが、
私はどんな人間なのかを決めているのって自分の言葉だなと思うし
それは単に自分の性格が変わるっていう話だけではなく
現実をどう認識するのかが変わるということで、
これってめちゃくちゃ重要な話なんですよ……。
私にとって……!

例えば好きな人にLINE送ったら2日経っても返事がこなくて
「うわ~~変なこと送っちゃったかな」
と思う、みたいなことってあるじゃないですか。
あれって、
起きていることの客観的な事実は
「LINEの返事が2日来ない」
ですよね。
そこに
「嫌われたかも」「嫌な思いさせたかな」「飽きられたかも」「めんどくさいと思われたかも」「いや、仕事忙しいだけかな~」
とか、解釈をくっつける。
それが人間だと思うんですよ。
この「解釈」をしない人って中々いないですよね。
でも解釈ってそのすべてが、「自分の頭の中だけの妄想」でしかない。

一見、もっともらしい、真実めいた「解釈」だとしても、
周りの友人たち全員が「いや~それは脈ないわ~」とか言ったとしても
それはやっぱり妄想なんですよね。

事実と解釈を分けるって、けっこう大事だな~と思います。
ついつい嫌な妄想に陥ってしまったりするけど、
「いやでも、そうとは限らないぞ」という視点を持つことに繋がるから。

でも、これ、LINEの話だからまだいいんですけど
人生のあらゆる場面で、人は解釈をひっきりなしに起きている間、ず~~~っとして生きてるじゃないですか。
その間、ずっと、これは事実でこれは解釈、なんて分けてる余裕はないので
人はみんな、自分の妄想の中に生きてると言えるな、と思うわけです。
事実ではないことを事実かのように認識しながら生きている。
私は嫌われ者だなとか、私には何もないから……
みたいなネガティブな妄想もあれば
私は愛されていて幸せ者だなあ
というポジティブな妄想もある。

でも例えば、人に本当に愛されてるかどうかなんて、事実確認をしようがないので
「それらしい証拠」をどれだけ集めたって、人の心は開いて見ることはできないので
「相手の言葉」「態度」「送ってくれたLINE」「プレゼント」「スキンシップ」とかそういうもので「愛されているかの解釈」をする。
その全ては、自分の中の妄想なわけですよね。

愛は幻想だとか、そういう悲しい話をしたいわけじゃないんですよ!
受け取り方次第で、
愛されているのに「いや、私は愛されていない」と思うこともできるし
「愛されているのかもな」と思うこともできる、という感じの話です、これは。

で、言葉の話に戻るんですけど。
例えば年中ず~~っと愚痴を言ったりとか
自分を卑下してみたりとか
ネガティブな言葉をずっと使っていると
「この世はクソで地獄で人間は愚か」
みたいな思考になっていったりするじゃないですか。
しませんか?私はめちゃくちゃします。

それは客観的事実ではなく、自分の解釈なのに
「いやでも、事実、世界にはこんなにクソな証拠がありますよ」
って、世界クソ証拠集め大会をしちゃう。
恋愛だったら、「いや私、愛されてなんかいないですよ。この間だって」
って、愛されていない証拠集め大会をしちゃう。
なんの得があって……???

いやまじでコレ本当に得がない。
得がないけどやっちゃう。
やっちゃうということは、そこにメリット(得)も本当はあるんでしょうね。
例えば周りの同情をかえるとか、共感してもらえるとか。

でも、「こういう話をするほうが嬉しいよね!メリットがあるよね~!」
と思いながら、ネガティブなことを言ってるわけじゃなく
もうこれは習慣であり、「私にとっての事実を話しているだけ」なんだと思うんですよね。ネガティブでもなんでもなく、それが私にとっての「本当のこと」だから口にする。
長年考えてきたことだから、もうそうとしか見えない。
そうとしか思えない。

怖い話じゃないですか?

本当は愛されているかもしれないのに、その可能性は頭に入ってこなくなって、「みんな愛してくれてる、頭ではわかってるんだよ、でもとてもそうとは思えないんだよね」とかさ。
もうそういう事実認識をしちゃってて、なかなか覆せない。

私がまさにそういう、ネガティブで塗り固めたような人生を生きて、この世も自分もクソだと思って、死にたいという感情しかないような日々を長年送っていたので
認識って怖いなって思うんですよね。
そして言葉って良くも悪くも力が強い、本当に。

だから今日、めちゃくちゃしんどいことがあったのに
その話をおもいっきりあれこれ書き残す、のではなく、
楽しいことあったよ、良いお買い物したよ~って記事を投稿しました。
これは何年も続けてる習慣です。
私の世界にはこんなに良いことがあるよ、
っていう証拠集めをしたいんですよね。
愛されていない証拠集めじゃなくて、
愛されてるよ、良いこともあるよ、幸せだよ、楽しいよ、私の人生ってけっこう悪くないよ、いやそれどころかめちゃめちゃハッピーかもしれん、
そういう証拠を集めたい。
そういう認識をしたい。
どうせ妄想なら、幸せな妄想をしたいんですよね。

それでブログのプロフィール欄も、
はっぴーらっきーいえーいみたいなことを書きました。
これ何回か書き直していて、
書き直すたびに、良い意味でアホっぽくポジティブになっています。
最初のプロフィールは、もっと暗い感じでした。

あまりにも、自分が思っていることとかけ離れたことを書いていると
エセポジティブしてるなって感じで、むしろ辛くなっちゃうんですけど
無理のない、自分が本当に嬉しいと思えることを
ちょっとずつ書くようになって
すごく生きやすくなったし
認識が変わって
まるで世界が変わったかのような感じもしています。
でもきっと世界は、ずっとなにも変わっていないんですよね。そこにあるだけ。面白いことですね。

でもですね!
ちょっと悩みもありまして!
愚痴、言いにくいんですよ!!
人間だから、暗い話をしたり
愚痴を言ったりもしたくなるんですけど……

私がお世話になってるSNSに
「愚痴はここに書こうね!」という隔離された場所がありまして。笑(素敵な配慮!大感謝です)
そこに愚痴を書いていると
「誰も助けてくれない 私なんて生きててもしょうがない」
みたいな言葉が、どんどん出てくるんです。
それを書いている時、本当にそうとしか思えない。
たくさん助けてもらっている人生なのに……。
これ怖いんですよね。
書けば書くほど、本当に、「私なんて生きててもしょうがない」が自分の中で、強固な認識になっていくのを感じてしまうんです。

だから書くよりは、人に口頭で話すほうがまだ良いかな~と思いつつ
愚痴の吐き方、すごく難しいな~~と思っています。笑

おわり!!
これ最後まで読んだ方いらっしゃいますか!?!?
いえ~~い!!僕と握手!!!!
あなたにたくさん幸あれ~~~~!!!!


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