見出し画像

【世界考察25】論理的思考力の高い人が信用できるとは限らない

タイトルの通りである。論理的な納得を信用と置き換えてはならない。

そもそも論を言い出すと論理がなぜ正しいのかは不明なので、実は論理であることにどのような意味があるのかすら究極的には不明なのだが、そこまで遡ると何も言えなくなるので、今回は論理が正しいことは前提とする。

例えば私は「学歴なんてしょうもない」テキストを挙げることが多い。学歴系のテキストはやたら伸びるので、もしかすると、そのテキストに惹かれて(信用して)私の発言を追い続けている人がいるかもしれない。

私は確かに心から「学歴なんてしょうもない」と信じている。しかし、そう思っていたとしても、私は「学歴がないと人生が終わる」というテキストを書くことだって、容易にできる。何本でも、それなりの論理を立てて書けるだろう。全く対立する意見のどちらに立っても、何でも書ける。論理とはそういうことだ。

論理とは前提から何かを導くツールにすぎない。論理を使うとき、前提を本当に信じているか、信じていないかは、どうでも良い。論理的思考とは信念とは無関係である。自分でも全く信じていないことですら、論理的武装ができるわけだ。悪意を持って使えば、いかようにも悪用できる。統計にも同じようなものである。データは嘘をつかないが(とも限らないが)、嘘付きはデータを使うとは至言である。

私は正直、現実にまつわる議論においては論理的思考力の高い人ほど信用ならないとすら思っている。特に自分の意見を交えようとしない人は危険だ。論理無視で感想を言ってるだけの方がマシである。論理厨よりは、それってあなたの感想ですよね、の方が信頼がおける。やたらデータを引っ張ってっきてどうたらこうたら言ってる議論は、大多数の方針を決める場であれば意味もあるのだろうが、基本的には見る気もしない。当然、現実にまつわらない場合は別だ。数学で論理無視の意見を言われても困る。

じゃあどんな人であれば信用できるのか。そんなことは論理的に考えても出てこない。俺が信用できると思えば信用できる。答えはそれしかない。どんな判断基準を持てばいいのか。そんなことも論理的には出てこない。判断基準は自分で設定するしかない。

論理とは簡単で強力な武器である。鎧でもある。ガチガチに武装して戦っている人を見ると、どこか腑に落ちない。なぜ彼は戦っているのだろうかと。一体誰と戦っているんだと。戦いに意味はあるのかと。絶対負けられない戦いがそこにはあるのかと。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?