【基礎教養部】合理的とは何か【経済学】
⚫︎前置き
前回の書評では経済学の本を扱った。こちらは既存の経済学は物理法則(相対論、熱力学第二法則、因果律)に反しているので概ね間違っているという装いの内容である。ずいぶん大きく出た話だが、実は経済学の本ではなく、サブタイトルの方がメインの内容である。とはいえ、経済学の否定の仕方は、切れ味が鋭く、鮮やかなものがあった。
そして今回、また別の経済学の本に目を通した。こちらは既存の経済学の問題点を指摘しながら、それでも経済学には意味があることを示そうとした本である。
この本について特に語ることはない。私の感想的には、前者の本の方がしっくりいった。なぜかといえば、そもそも経済学そのものが全然入ってこないからである。なので既存の経済学をほぼ全否定してる本の方が頭に入ったという話だ。経済学が頭に入らない理由ははっきりしているので、今回はそれについて語りたい。
⚫︎合理とは何か
経済学で頻出するのは「合理的」という言葉である。経済学がその基礎部分で想定するのは「合理的人間」である。理に適合するということで、合理的なのだろうが、一体理とは何なのか。合理的人間をより経済学的に言えば、自己利益(効用)を最大化するように行動する人間とでも言えるのだろう。つまり理とは自己利益である。合理とは自己利益に合うことである。
さて、これで合理が理解できた人間はいるのだろうか。いたとすれば、一体何を持って理という言葉を理解したのだろう。合うは、まあ理解できる。理とは何か。理を自己利益と言い換えたところで特に意味はない。自己利益とは一体何なのか、という話になるだけだ。自己利益を効用と言い換えても意味はない。効用とは何なのか、満足度とは何か、と無限に後退していくだけである。あらかじめ定義しようがなさそうなものを持ってきている時点で、どうにも経済学が頭に入ってこないのである。効用とは何かを定義することは、美とは何か、善とは何か、悪とは何か、そんな抽象的で測りようがないものを定義しようとするに等しい行為に思える。効用を数値化できると言われるとますますわからない。この美の度合いは10である、この美の度合いは3であるなんて定義できるのだろうか。どうやって? 脳の興奮度合いでも測るのか。仮にそれで数値化したとして、脳の興奮度合いと美は結びついている保証はあるのか。もちろん究極的にわからないから何も考えなくていいということにはならないが、経済学は真美善を考えている学問に近いものを感じていることは確かである。しかしガワとしては哲学側ではなく、サイエンス的な装いをしているので、ますますわからない。
⚫︎お金とは何か
効用とは所得であるなんて言われた日には、もっとわからない。GDPの向上で国民生活が豊かになるなど、全くもって何一つ理解できていない。まず豊とは何なのか。そこから説明してほしい。お金が増えたから豊かになるのか。もちろんそういう一般論があることが理解できないほど愚かではないが、私個人としては全く実感が湧かないわけである。そもそもお金なるものの正体が全く理解できていない。なぜかはわからないが、交換の形式として与えられている何かとしか言いようがない。交換の媒体をひたすら増やしても物は増えないのだが、なぜか人は交換の媒体を増やすことに心血を注ぐわけである。それはこの媒体と物質が強力に結び付けられているからなのだろう。おそらく、私にはお金が物質と結びついている感覚が薄い。こんな人間が合理的経済人として振る舞うことは想定できないので、ますます経済学が理解できない、というループに陥っていく。もちろん、そんな特殊な個人を想定していないことは理解している。そういう意味で、経済学は統計である。統計で出力されたブラックボックスを享受することが正しいのか。そのブラックボックスにひたすらいちゃもんをつけ続けるのか。どちらが正しいのかは、わからない。
⚫︎前提を共有する
何かを理解しようとした場合、前提を共有しないと話が進まない。高校物理で空気抵抗を考えないのは前提である。その前提を疑い出すと、非常に生きづらい。私にとって経済学とはそういうものである。ものであるがゆえに、今後も深入りすることはないだろう。
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