【基礎教養部】生きるための経済学【書評】
今回の書評は経済学の本である。個人的な経済学の知識といえば、大昔に経済学検定なる検定を受けた時に勉強したミクロ経済マクロ経済の知識と、以前紹介したMMTの知識くらいしかない。それもほとんどうろ覚えである。経済学の知識はないに等しい。ただ、なぜ人がそこまでお金に価値を感じるのかは疑問に思っている。人間は信じられないけどお金は信じられるという謎の文言もある。当然、お金のシステムを作ったのは人である。人は信じられなくても人が作ったシステムは信じられるとはどういう了見なのか。それは人を信じていることと同じなのではないか。私はどちらかといえば人間は信じられるがお金は信じられない。人間は信じられるがシステムは信じられない。真逆である。お金は裏切らないとは何なのか。金も筋肉も裏切るときは裏切る。
ということで、経済学的には無知に等しいので、この本を経済学的に評価するのは不可能である。単に読んで整合性があるのか、納得できるかどうかが焦点となる。
●シジョウとイチバの違い
市場と書くときに二つの読み方がある。シジョウとイチバである。本書ではシジョウは抽象的な経済の場であり、イチバは具体的な経済の場として考えている。既存の経済学はシジョウを捉えようとしてイチバをスルーする傾向にあるが、それでいいのかという問題提起がある。なぜならシジョウを考える際でも、常に実在するのはイチバだからだ。とはいえ、イチバを具体的に分析するだけでも、経済学とは呼べない。実際にそういう本はあるが、社会学の域を出ていない。シジョウとイチバを別々に分析していたのでは足りない、既存の経済学を乗り越えるにはシジョウとイチバを統合的に分析し、明晰な言葉で語る必要があると筆者は述べる。
のっけから新しい経済学について力強く宣言しており、経済学者的にはその通りなのだろうが、門外漢としてはイチバとシジョウを別々に分析することに、何の問題を感じない。経済学はシジョウ、社会学はイチバを研究する。何の問題があるのか。謎である。既に問題意識が共有できていない。それを統合すると、現実をより的確に分析できるということなのか。人文科学においては、具体と抽象を統合しようとすると、大体は具体性に引っ張られて終わるというのが、私の見解である。イチバとシジョウの分析は分けておいた方が健康的なのではないか。風車に向かうドンキホーテのように難敵に向かう本である。経済学は人文科学なのか。
●経済学の問題点
既存の経済学の問題点として二つの原理が挙げられている。
最適化原理の問題点として、NP困難という事象が出てくる。最適な組み合わせを選ぶときに、取り出すべきものが増えると、組み合わせの数が爆発的に増大して計算不能になる。このように解があると分かっていても、現実に解くのが困難なものをNP困難と呼ぶようである。経済学はNP困難を無視して最適化原理を置いている時点でおかしいという話だ。無限の計算速度が必要になるため、相対論に反しているとまで言う。この手の関係なさそうな科学用語を引き合いに出す作法は既に滅びたと思っていた。この本は2008年の本なので、当時はまだそのような空気があったのかもしれない。
さて、このNP困難を引き合いにして最適化原理がおかしいというのは正しいのだろうか。初等力学は、質点という現実にあり得ない密度無限大の点を想定して構成されているが、初等力学が無用の長物などと言う人はいないだろう。NP困難というだけで最適化原理がおかしいことにつながるのか、あまり見えてこない。その後最適化原理は熱力学第二原理に反しているなどと続く。そして、無限の計算速度を持っていると仮定しても、熱力学第二原理に反していても良いと仮定しても、やはり最後には因果律に反するので既存の経済学はおかしいと結ばれる。とにかく物理法則に反するからおかしいらしい。ここまで科学用語を引用しなくても、二つの原理に何かしらの違和感を抱くことは確かである。
●自由のために
なぜこのようなおかしな仮定を信じてしまうのか。筆者は人間が自分自分を自由な存在だと信じたいからだと解く。二つの原理が人間の自由を保障しているということか。私は自分が自由な存在でなくても全く構わないので、そのような信仰心はない。むしろ人間が自由な存在だとは全く思っていない。ここで信じられたい自由とは西欧神学的な選択の自由である。
●自由と責任
自由と責任を結びつける話が続く。この手の議論は、実際人間は自由ではないと説きながら、しかし責任からは逃げられない、という話が多い。私は人間は全く自由ではないし、従って責任も存在しないという立場なので、前提が異なっている。ただ筆者によるとこの決定論的世界観は破滅的な考えらしい。ほぉ。そうですか。よく読むと決定論的世界観というよりも西欧的な予定説のことを言っているようである。予定説では救われる人間があらかじめ決まっている。ただその救いを確信するために日々サボらず何かをし続けるという仕組みになっているらしい。神の意志にひたすら従うという自己目的化が、経済学の想定する最適化原理の考えと一致しているのだろうか。
●社会的自我
自我は社会的に形成されたものである、という話。人間が周りからの評価を満たすために生きているのは、当たり前すぎる話である。そのために自由が失われているというのもその通りである。私にはその当たり前がないので、人と話が噛み合わない。世界考察で取り扱った学歴の話も、おそらくここに当てはまるのだろう。自分で扱っておいてなんだが、一体いつまで学歴の話をしてるんだと言いたい。学歴はいいからお前の人生を生きろ。
●選択の自由に立脚しない経済理論
西欧の神学的な選択の自由を経済学に持ち込むと、最適化原理なる不思議な発想が生まれ、不自由な自由に縛られる経済行動が当たり前になる。なので経済学における原理を見直そうという話。現実のイチバを活性化するキーワードは選択の自由ではなく、「創発」である。人間の無意識的能力とでも言えばいいのか。例えば人間は写真を一目見ただけで猫だとわかるが、AIに同じことをやらせるのは難しいと聞く。これはAIが上に上げたような組み合わせ計算を行なっている一方、人間は別の理屈で計算を行なっているからだろう。この人間独自の行為を創発と言っているように見える。ただ創発そのものは、研究できないので、創発を阻害しないためにはどうすればいいかを考えている。
●選択の自由と道
西洋的な選択の自由の対極として孔子の「道」が取り上げられている。道には岐路が存在しない。目的地もない。おのずから従うべきものである。ここでやるべきなことは選択ではなく、道を知り、道から外れないことだ。
●結論
筆者の試み通り、シジョウとイチバを統合的に捉えることはできていたのか。この手のものはどちらかに寄りがちになるわけだが、シジョウの原理とイチバの現実をまとめて捉えながら論じているので、その部分に関してはかなり成功していたと思う。
一方、本のタイトルは「生きるための経済学」でサブタイトルが「〈選択の自由〉からの脱却」であるのだが、これは実際のところ、サブタイトルの方が本題だった。より正確なタイトルは「西欧神学からの脱却」ではないか。正直経済学の話は本題ではなかったように思える。経済学を勉強しようとしてこれを手に取るのが正しいかは怪しい。ただしこの本の考えに従うと、既存の経済学はそもそも指導原理から物理法則に反しているわけなので、学ぶ必要すらないのかもしれない。
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